幸村精市という少年は美しい。

白い肌も綺麗な瞳も通った鼻筋も、全てがまるで一つの芸術のように思われて、お人形さんみたい、と私は思った。そして違うだろう、彼は男だと、適度に筋肉のついた腕を見て、頭の中で自分の思考に対して反論する。だけど美しいことに変わりはないのだ。


「幸村精市って知ってる?」
「何急に」

「いいから」と購買で買った焼きそばパンを頬張っている巴が私の顔をジッと見た。お互いの話題の振り方が突拍子もないことは小学生からの付き合いで把握していたし、いまさらそれに対して疑問を持つことはない。
幸村、と彼女の口から出てきた名前を復唱して、頭の中から検索ワードに引っかかったその存在を引きずり出した。

「ああ、テニス部の」
「何で知った?」
「噂」
まで届いてるんだ。じゃあ相当だな」

ペロッと焼きそばパンを食べ終わり、メロンパンの袋をバリッと開けた巴は、一口だけオレンジジュースを飲んでからメロンパンを口に入れる。
小学校の六年間プラス今年も入れれば中学校三年。計九年にも及ぶ付き合いの中で、彼女は「が知っている噂話は相当出回っている」というなんともいえない判断基準を設けていた。確かに私の耳は噂話に鋭いわけではないのだが。


「大丈夫ですか?」

そう困ったような、心配したような色で私にかけられた彼の声を、聞く。


何があって、さっき親友から聞いた名前の主が眼前にいるのだろう。

一瞬それがわからなくて、彼の顔をまっすぐに見たまま目をパチパチとしばたかせた。少し経つと気持ちが落ち着いてきて、幸村という少年の顔を目の前にしたままいつもの無表情に戻る。
状況を理解することはさほど難しいことではない。駆け寄ってきた同級生の女生徒と、妙に近い幸村くんの顔。背に残る自分とは違う人間の熱は、先ほど受け止めてくれた腕の感覚を未だ鮮明に覚えていて、目の前に広がる上りの階段を私はまだ降りた覚えがなかった。

――落ちたんだ。

それが解って余計に落ち着いた私は、壁につけていた背を離し、しゃがみ込んでいた足を立たせた。ぶつかった少女も名の知れた彼も心配そうな目でこちらを見てくるが、目の前のその人が受け止めてくれたおかげで怪我は一切なく、思い出した落ちた感覚に一瞬ふらりとなったものの、何の問題もなく立ち上がることができる。
移動教室からの帰りだった為に持っていた荷物は、彼女が拾い集めてくれていた。

さん大丈夫!? 怪我とかない!? ごめんね、私の不注意で……!」

人を落としてしまったことへの恐怖か、それとも他に何かあるのか。彼女は私に向かってしきりに謝る。人がよさそうな彼女は私よりもずっと青い顔をしていて、今すぐ保健室に行けと言ってしまいたくなるほどだった。落ちたのは自分で、本来保健室に行くべきなのは自分だから、「気にしないで」と軽く声をかけるにとどめる。
彼女の手から荷物を受け取り、落ちたときに乱れた髪を整え耳にかけた。ほっと一息ついてから、恩人というべき彼の視線を真っ向から受け止める。

「大丈夫。ありがとう」

無愛想にもほどがあるだろう。そう言って苦笑を呼ぶ私の表情はやはりこんなときでも変わらない。
私の前で微笑む彼は「いえ、大事にならなくてよかったです」ととても綺麗に微笑んだ。


黒く長い髪がさらさらと揺れる。
彼女が階段の上から落ちてきたのはついさっきだったはずだが、落ちてきた本人は見ていたギャラリーよりもケロッとした様子だった。「何かあったの?」と訊ねるかのような目で俺を見て目をパチパチさせたさまは、本当に何も問題がないようでもあったし、理解ができていないようでもあった。いつまでも抱きとめたままではと思い無理にならないように降ろしたのだが、彼女はそれすら普通に立ち上がってしまって、何がなんだか。どちらかといえばぶつかって彼女を落としてしまった女の先輩の方が顔色が悪く、心配になるほどだった。実際落ちた彼女がそういう目をしていた。

今はぶつかった方の先輩が「何が何でもお詫びをさせてほしい」と言ったことで学食にきている。落ちた方の彼女は渋々という思いがひしひしと伝わってくるような空気をかもし出して、それでも相手の気が済むならとついてきていた。ちなみに俺は、面倒くさそうにしている彼女が言った「君もおいで」の一言によってこの場にいる。

「何がいい?」
「自販機のいちご牛乳」
「え、そんなでいいの?」
「そもそもお詫びなんていらないから」
さん……遠慮なんていらないよ?」
「してない」

バッサリと切り捨てた彼女はという苗字らしい。

――……?

どこかで聞いた名だと思ったがなかなか思い出せず、もやもやとした何かが頭の中に蓄積されていく。訊ねればいいのか。だがそれはいささか失礼ではないだろうか。そう思っている間にという彼女は買ってもらったいちご牛乳を受け取り、再度自分の財布から自販機に小銭を入れた。

「幸村くん、いちご牛乳好き?」
「え? はい、それなりに」

「そう、よかった」小さく呟いて差し出してきたのは、紛れもないいちご牛乳だった。

「?」
「君のおかげで怪我なくすんだから、そのお礼」
「え、いや俺は……」
「いいから受け取って。無駄になる」

二本も飲むつもりはないんだ、と言った先輩の意外な押しの強さに、俺ははあ、と生返事をしてそれを受け取る。それで、〝お詫び〟にまで俺を連れてきたのか。

「あの、先輩」
「何?」
「ありがとうございます」
「それはこっちの台詞のはずなんだけどね」

お礼を言われる筋合いはないと言外に言っているようだった。という苗字しか知らない先輩は、表情は変わらないのに感情豊かで、とてもサッパリした人であるようだ。
奇妙な既視感に首をかしげながらも、その先輩に対して悪い印象なんてものは微塵も持てはしなかった。

もう、波は消えない

(だってほら、出会ってしまった)
  • 2011/09/03
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