「ピアノのコンクールで何度か優勝しているそうだな」
「へぇ……有名?」
「最近雑誌に彼女についての記事が掲載されたそうだぞ。本人が大きいコンクールに出たがらないらしいから、世間一般に誰でも知っているというわけではない」
「雑誌?」
「中学高校生向けの女性誌だそうだ。女子が騒いでいた」

という先輩は、結構名の知れた人であったらしい。どうりで聞いたことがある名前だったわけだ、と思ったが、同じ学校にそんな人が通っているだなんて、それも二つも年上の人だったから尚更、気づきもしなかった。
柳によれば、成績は一年の頃から一桁台。音楽については言わずとも。容姿に関しても端正な顔立ちをしているが決して派手なわけではなく、化粧の気はないが華やかで好印象だったのを俺は間近で直に見ていた。それに関して鼻にかけるわけでもなく温厚でサバサバとした性格をしていて、悪い噂は一つもないという。
情報では絵に描いたような〝優等生〟。だが俺が見た彼女は無表情で、端から見たら無愛想そのもの。そうではないとわかるのは近くで会話をしている人間だけという、なんとも不思議な人だった。綺麗な顔立ちなのも相まって人形のようで、でもその声には生を感じ、その目には他の人よりも強い色が見えていて、それが酷く印象に残っている。

「それで、何で急になんだ」
「ああ、さっきね、階段から落ちてきたところを助けたんだ」
「階段から? 危ないな」
「本人はケロッとしていたよ。ぶつかったお相手の方が動揺しちゃって」
「それは、少しおかしいな」
「何が?」
「彼女は中学生だが、ピアニストだ」
「あ」

『ピアニストだ』

その言葉が頭の中で反響する。
そうだ。彼女はピアノのコンクールに出るような、そしてそれに優勝するような、そんな人なのだ。
ピアニストにとってピアノを弾く手は何よりも大切だと、テレビや本でよく聞いた。階段から落ち、反射的に手を出して体を支えようものなら腕は無傷では済まないだろう。はそれを最も避けたいはずで、それに対し慌てたりなんなりして手の無事を確認するべきだった。それが彼女にとっての普通の反応であるはずだったのだ。

「だからか……」
「何がだ?」
「ぶつかってしまった先輩が、彼女に対して敏感に安否を確認していた」

慌てながらも彼女を気遣ったあの先輩を思い出して納得がいく。許されても尚お詫びをしたいと言ったのは、一歩間違っていたら彼女がピアニストにとって大切な腕を怪我していたかもしれなかったからか。
やはり、普通でなかったのは先輩の方だった。

『本人が大きいコンクールに出たがらないらしいから、世間一般に誰でも知っているというわけではない』

柳はそう言った。それはまるで、大きなコンクールに出れば優勝できるだけの実力を持っていて、そうしたら世間にも知れ渡るような人物であるかもしれないと、そういう意味にも取れる。どこかの批評家が何かでそう言ったのか、柳の見解なのかはわからないが。

彼女が落ちてきたときの様子を思い出す。
衝撃で先輩の腕から荷物が散らばった。目を大きく見開いて青ざめたあの先輩が後ろに見え、徐々に彼女が迫ってくる。
――そうだ、先輩は体制を整えようとはしなかった。そのまま落ちていれば頭からいったかもしれない。そのときは小さな違和感を覚えた。でも――……体を抱きしめるように腕を守っていたのか。

「落ちるとき、俺が受け止めてなかったら地面に頭が直撃していたと思う」

そう言うと、柳は眉を顰めた。そうだ。面識のない柳すら眉を顰めたくなるような状況だったと思う。
あの場で何事もなかったように普段通りだったのは、ただ一人だった。

「だけど彼女は体制を立て直すことをしなかった」
「どういう意味だ?」
「そうしてしまったら腕に負担がかかることを、わかってたんだと思う」
「命がけだな」
「命がけだよ」

今度はきみが捕まえてよ

(次はいつ会えるのかな、なんてね)
  • 2011/09/06
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