先輩」
「ん? ああ、お久しぶり」

立海で学年を越えて廊下でばったり、ということは多くはない。生徒も多いし、何より相手に気づくことが稀だった。そう言う私も今まで彼の存在に気づかなかったのだからどうしようもない。だが今は下校時間だ。仕方がないだろう。
幸村精市という少年は、この間階段から落ちたところを助けてくれた恩人だった。そして、ある意味学校中が注目しているだろう人物だ。そんな彼が、また私に声をかけてくるとは。何かあったのだろうかと首を傾ける。

「お久しぶりです」

にっこりと相も変わらず綺麗な笑顔で迎えられる。近くにいた女子生徒が少し息をのんだのを感じて、お前ら三年だろ、とつっこみたくなる。三年が一年に対して恋愛をしてはいけないと言っているわけではなく、引っ張っていく側であるはずの三年が一年に惚けて馬鹿面をさらしていていいのか、と思うのだ。だが彼はそんなものには目もくれず、私と彼の間に開いていた距離を詰める。横で巴が「あんたいつの間に仲良くなったのよ」と困惑した声を上げていた。

「あ、篠崎先輩もこんにちは」
「ちょっと幸村、私のことついでみたいに」
「そんなことないですよ」
「嘘をつくな嘘を。いつの間にと仲良くなったの。ほんと油断も隙もないわね」
「何言ってんの巴」
はちょっと黙ってなさい」
先輩、帰る方向どちらですか?」
「幸村も私をシカトするんじゃないの!」
「帰る方向? あっち」

間でギャーギャー言っている巴を横に退けて、指で方向を指し示す。彼女は納得いかなそうな顔で眉間に皺を刻み、幸村君を見ていた。
巴は――幸村君が好きなんだろうか。
いや、それはないな、と思う。彼女の性格からして、部活の後輩に手を出そうとは思わないはずだ。好きになったとしても、彼女はそれに見向きもしない。何より巴は今、テニス部の部長殿と付き合っているのだから。
彼女はテニス部のマネージャーだった。だから、幸村君からすれば部活の先輩で、会ったら挨拶くらいは礼儀としてするだろう。それくらいのことを気にする子ではないのだけれど、この突っかかりようは妙だな、と他人事のように眺めた。

「俺もあっちなんです」

にっこり。人懐っこいような人を寄せ付けないような笑顔を見せた。巴が一層嫌そうな顔をする。後輩に向ける顔ではないだろう、とため息をつきそうになって幸村君の前だということを思い出し、やめた。先輩がその友人にため息をつかれている様なんて見ても面白くはないだろう。

「一緒に帰る?」
!」
「いいでしょ別に。巴の後輩なんでしょ」
「そうだけど……ったく、あんた無防備すぎるのよ」
「そりゃどうも」

じゃあ靴履き替えてくるね、と自分の靴箱に向かう。幸村君も一年の靴箱の方へ歩いていった。
何が無防備だ。中学一年生の、自分を助けてくれた男の子相手に何を警戒しろというのだろう。にっこりと微笑んだあの顔は正直少し苦手だけれど、それでも彼は悪い人ではないのはわかる。作り物のように整った端整な顔立ちは本当に美しいと思うし、ただ眺めていることも苦痛ではない。周囲に群れる少女達のようにミーハー気分で近づく気にはなれないが、来てくれたなら拒む理由もなかった。

は鈍い」
「鈍くない」
「鈍い」
「じゃあ鈍いでいいよ。何なの」

はあ。
わけがわからなくなってため息が出る。巴は何を言いたいのだろう。わからないことを考えるのは趣味じゃないが、気になるものは気になった。
靴を履き替えて出て行くと、幸村君が既にそこにいた。

「お待たせ。いこうか」
「はい」
「ちょっと、途中で本屋寄るの忘れないでよ」


「私あっちだから」

巴は目的の本がある場所まで直行していった。地元にある本屋は小学校の頃から、下手をすればそれ以前からお世話になっている場所だ。ちょっとくらいの蔵書整理ならどこの辺りに何があるのかなんてことは簡単に把握できてしまう。その上店長とも長い付き合いで仲がいいのだから、一番利用しやすいのはこの本屋だった。
今日は彼女が好きな作家さんの新刊が発売される日で、店長には前もって取り置きをしてもらっている。彼女はそれと、ついでにまだ集めきっていないファンタジー小説の棚にいくのだろう。今日の私は残念ながら目的も何もないので、後輩の幸村君を一人にするのは悪いという意味もあり店内の邪魔にならないところで彼女を待っていた。

先輩は読書しないんですか?」
「巴よりはするよ」
「かなりじゃないですか」

そうだ。巴はかなり本を読む。私はすることもないからそれ以上に読む。趣味多彩な彼女とは違い、私にそれ以外の趣味らしき趣味がないからだ。ピアノの練習はやればやるほど上達するが、手のためには休ませることも必要だった。毎日時間を決めて弾き、それを厳守しているのは私のスタイルだ。

「幸村君は?」
「篠崎先輩ほどではないですけど。あ、これとか読みました」

丁度文庫本のコーナーにあった本を一冊手に取り、表紙を私に見せる。

「ああ、これなら私も読んだ」
「面白かったです」
「うん。面白かったね。犯人が間抜けで、ギャグ風味だ。普段はこういうのはあまり読まないんだけど」
「いつもはどんなものを読むんですか?」
「寓話はすきだよ。ファンタジーも読むしミステリーだっていい。ホラーはあまり読まないな」


という先輩は、篠崎先輩のように愛想がいいタイプではない。ふとして見ると大抵無表情だし、綺麗な顔に可愛げはあまり見受けられなかった。だけど話をしている時の淡く感情がにじみ出るような声色や、篠崎先輩に見せる親しみを持った愛しむような空気がとても魅力的で、そういうところは綺麗というより可愛いな、と思う。
そう思ってしまう辺り、俺はもうすでに彼女を好いてしまっているのだろう。篠崎先輩にあれだけ牽制されても、納まる気配はなかった。

彼女はとても、疎く見える。

だけど俺よりも年上で、恋愛なんてものは今までに何度も経験してきたんだとも、感じる。俺を恋愛の対象として見ていないのはわかるけれど、それではあまりに悲しかった。何とか意識させるような術がないか。そう思ったとき、空いている彼女の右手を見た。

「幸村くん?」
「はい」

案の定、握ってみてもなんの反応もない。嫌がって振りほどくことはないが、受け入れて指を絡めることはなかった。そりゃそうだ。恋愛小説のように甘ったるい空気なんて流れるはずがない。
この人はどれくらい鈍感なんだろうか、と頭の中で考える。
だけど恋をした彼女の情報はあまりに少なく、俺には何もわからなかった。

「私は、君のお姉さんじゃないよ」
「わかってますよ」


「お待たせ、二人とも」

本を購入して機嫌のいい巴が戻ってきた。幸村くんはその瞬間、巴に見つかる前に私の手を放した。

『わかってますよ』

そう言った彼が私にはわからない。そしてあの質問が、とっさに弟が姉にするような感覚だと思ったあの思考が、自分の中に作っていた逃げ道であるということに気づく。
――そんなはずがない。
そうだ。そんなはずがない。あの幸村精市が、私に恋愛感情を抱くわけがない。

、何してるの。いくよ」

何も知らない巴が私に声をかける。
巴の後ろで立ち止まってこっちを見た幸村君は、いつものようにやんわりと微笑んだ。
――ほら、やっぱり。
さっきまでのはほんの戯れだ。幼馴染のお姉さんにするような、猫が懐くような、そんなものだった。
驚くほどに困惑していた。今まで揺れたことすらほとんどなかった心が揺さぶられる。恋愛に対する経験のなさが、私の心を乱していた。

先輩、いきましょう」

幸村君がそう言ったことで、巴が前に進みだす。その瞬間、

乞うようにキスをする

(本気、冗談、どっちなの)(誤解しないで、あなたが好きなんだ)
  • 2011/09/12
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