「篠崎先輩、最近先輩と一緒にいませんね」

そう言うと彼女は酷く驚いた顔をしてポツリと呟いた。

――あの馬鹿


「留学……?」
「そうよ。アンタ本当に何も聞いてなかったのね」
「これっぽっちも」

篠崎先輩は苦虫を噛み潰したような顔をして俺から目を背けた。
明るく活発で、だけどどことなく大人っぽい。人に合わせながらも自分の意見を言える人だ。だから、何かを言いづらそうにしながら眉間に皺を刻んでいるところなんてそうそう見られるものではない。

「篠崎先輩は知ってたんですか?」
「当然でしょ」

だけど幸村には言わないような気がしてた。そう言って篠崎先輩は苦笑した。動揺して練習に身が入りそうにない俺に、彼女は「今日は休みなさい」とそう先輩らしいことを言う。
休めるのだろうか。こんな、もやもやとした気持ちのままで。そんなことを思いながら、最後に聞きたいことを一つだけ聞く。

先輩はいつ帰ってくるんですか?」


『少なくとも、立海で卒業式は迎えられないわね』

篠崎先輩の声が頭の中で反響している。

学校という繋がりしかもっていなかった俺と先輩の薄く脆い糸が途切れたような気がした。細すぎて、本人ですら途切れたことに気付けないようなそんな柔らかさで。
彼女と過ごした時間も、彼女と交わした言葉も、多くはない。それどころかあまりにも少なく、という人間を理解するには少なすぎた。先輩は元々ピアノの才に優れた人なのだろう。俺にとってテニスが生きがいだと言うのなら、彼女にとっての生きがいはピアノであったのだと思う。階段から落ちた時、何が何でも手を守ろうとした。その姿勢を俺はこの目でしっかり見ていた。それを理解したのも、思えば後になってからだったと思い返す。
加えて勉学に置いても学年トップレベルの成績を保持している人だ。留学という話が持ち上がらないほうが嘘だったのではないだろうか。

は元々幸村に歩み寄るつもりはなかったのかもしれない』

流石にキスまでされればあの子だって悶々と考えて、一つの答えを導き出す。馬鹿じゃないんだから。どうせ離れることがわかっていた。中途半端な繋がりを持って、離れる寂しさを増やすのは嫌だと思ったのかもね。

篠崎先輩は、聞いたことに関しては一つも漏れず答えてくれた。留学している国、学校、ピアノを学びにいっていることも、彼女が帰ってくるであろう時期も全て。俺が自ら聞いたことに対して、一つも逃すことなく教えてくれた。言わなかったのはあの子が悪いと、言っておくべきだったのよと、そう小さく苦笑しながら。

先輩がいない。そのことに確かな消失感がある。だけどそれほど、大きいものではない。それは彼女が俺に歩み寄ることを意図的に避けていたからなのだと思う。それでも好きな人が近くにいないという消失感を感じながらも悲しみに明け暮れることのない自分が滑稽でしかたがなかった。

自分は先輩が好きなのではないのか?

好きだと答えられる。胸を張って俺はに恋をしていると言える。それは確かなことなのに。
短い期間だろうがなんだろうが、少しでも関わって、少しでも言葉を交わして、そこで見つけた彼女の魅力を愛したのは紛れもない事実なのに。

「見込みはないと思った方がいいんでしょうか」。そんな情けないことを篠崎先輩に聞いたら、彼女は呆気にとられた顔をして、それから淡く笑った。

『逆だと思うわ』と。


俺は一年で、先輩も篠崎先輩も三年だ。
篠崎先輩の言っていたように、先輩は立海の卒業式には出席しなかった。
いなくなって何か月も経ったのに、結局俺は彼女を忘れられないままその年を過ごし、なんの連絡もない先輩を半ば〝夢の中の出来事〟のようにとらえ始めている。それを誰よりも強く理解してくれている篠崎先輩が、「とりあえずは元気だそうよ」と時々ふと声をかけてくれるようになった。

木に薄桃色の蕾が芽吹く頃。長い卒業式を終えて、テニス部の面々が先輩達を見送る。人気の高い立海テニス部の先輩達は、部活外からも惜しまれ涙の別れとなるのが定石だと二年の先輩が言っていたのを思い出した。確かに凄い数のギャラリーだな、と思いながら、俺はやっぱり別のことを考えている。

「幸村」
「……篠崎先輩? 卒業おめでとうございます。列抜けてきてよかったんですか?」

卒業生達は今、校門に向かって歩みを進めているところだった。綺麗に整列しているわけではないが、全員が全員ここを通っていくのが通常だ。

「いいのよ。私、学校には思い入れ薄いもの」
「いいんですかそんなこと言って……」

卒業式ですよ、と苦笑すると、私らしいでしょ、と先輩。この奔放さは、幼馴染というだけあって先輩と似ている。

「この後時間あるでしょ?」
「あること前提なんですね」
「だって卒業式の日はテニス部も練習ないじゃない」
「そうですけど……俺に用事ですか?」
「ええ、絡みでね」

「えっ」と言葉を詰まらせた俺に、彼女はニタッと笑って見せた。


卒業式が終わり送り出された元三年生の中には、寄せ書きやらなんやらのためにまた校舎へ戻ってくる者も多くいる、という話を、移動しながら篠崎先輩は話した。「送り出された意味ないわよねえ」と笑う彼女の話を、今の俺の耳は脳にまで届けない。
先輩絡みの話? 何かあったのか? などと柄にもなく混乱した頭で考えたところで思考がまとまるはずもなく、「こら、人の話は聞くものでしょ!」と篠崎先輩にチョップされるまで考えるのを止められなかった。

「はい、これ」
「え」
「え、じゃないわよ。さっさと受け取りなさい」

薄黄緑の封筒を差し出す篠崎先輩が俺を急かす。急がされるままにそれを受け取り、彼女の「開けなさいよ」の言葉が来るまで呆然としていた。
丁寧に封筒を開け、中身を取り出す。
一枚の便箋と、これは――――

「……ボタン?」
のよ。私、卒業式の日取りは教えておいたから。渡しておいてほしいってさ。……勿論、アンタにね」
「もらっていいんですか?」
「そりゃそうでしょ。幸村がいらない物だと思わないなら、後生大事にとっておくといいわ」

「じゃあ、それだけだから。またね」。
自分で呼び出したくせにさっさと帰ってしまう篠崎先輩は、本当に先輩のお使いのためだけにここに残ったようだ。
確かに卒業式が終わった後も学校に残り、寄せ書き交換などをするタイプではないが、このためだけに時間をとってくれたということがとにかく、ああ、この人は俺のことも、先輩のことも、気にかけてくれていたんだと今更ながらにわからせる。

「篠崎先輩!」

卒業していく篠崎先輩を呼び止めた。歩みを止め、顔を少しこちらに向けて彼女が視線で「何?」と語る。

「卒業おめでとうございます!」

〝お世話になりました〟とたくさんの〝ありがとう〟を込めて、その言葉を叫ぶと、彼女は「さっきも聞いたわよ」と笑って歩いて行った。


――幸村精市君へ
お元気ですか? 留学してからずっと巴と文通してるんだけど、幸村君に留学のことを伝えなかったこと、何度も何度も怒られています。仕方ないよね。私も大分酷いと思った。幻滅とかされてしまったかな、と少し心配です。でもしんみりした別れとか、私本当にそういうの駄目だから……わかってくれるって信じてる。立海が卒業式ということで、幸村君に感謝を込めて、私の第二ボタンを送ります。よかったら受け取ってください。
――

ただ想うだけはこんなにも難しい

(それでも貴女を愛していると、届いた手紙を抱きしめた)
  • 2012/02/19
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