ボタンをもらって二年が経って、結局その間先輩からのコンタクトはほとんどなく、ただ時々部活をのぞきに――もとい、冷やかしに来た篠崎先輩から、「は元気よ」と一言もらうだけの、そんな微妙な距離が続いていた。篠崎先輩は「必要がなくなったら言って」と言ったけれど、俺がそれを「いらない」ということはついになく、そのまま自分の卒業を迎える。

「幸村、まだのこと好き?」
「何ですか、急に」
「別にー?」

大変な年だった。
俺は病気で入院していたし、手術もしたし、全国では優勝できなくて、でも皆本当に頑張っていて。普段真田と一緒になって厳しい部長、副部長であり続けたけれど、篠崎先輩相手にはそれも必要ない。見舞いにきてくれた篠崎先輩にビンタされたことがあるのは覚えているのだが、正直その一週間ほど後になって、彼女が気まずそうに現れて「ごめん」と言ったことのほうが驚いて覚えている。何でも、手紙で「幸村をビンタした」と書いたら、先輩に「ビンタは悪い」と言われたそうだ。

「ったく、幸村も卒業かー。あんなガキだったのにねえ」
「ガキって」
「そら私も歳を取るもんだわ」
「篠崎先輩、まだ普通に若いじゃないですか。この間彼氏にペンダント買わせてるの見ましたよ」
「え、うそ。後輩にそんな情けないところ見られるなんて可哀相に」

篠崎先輩は未だにテニス部の元部長と付き合っていて、それは結構上手くいっているらしい。卒業式まで押しかけて俺に絡むから、時々暇すぎるんじゃないかとは思うんだけど。

「ま、いいわ。せいぜい今日一日、卒業気分を満喫するのね。――できるなら、だけど」
「何ですかその不吉な……」
「魔王に不吉とか言わせるなんて、やっぱ私もまだまだ現役かもね」

ひらひらと手を振って、一足先に体育館の方へ向かう。彼女は卒業生で、俺は今日卒業する身だ。式の前に長々と話している暇がないのは重々承知しているけれど、あんな今までにないくらい意味深な言葉を残してどこかへいかれては困ると思う。
でも。

(あの人は変わらないな)

そう、心の底から思うわけで。それを思うたび、彼女も――先輩も、俺の知っている先輩のまま、変わっていなければいいと思う。そういう希望が持てる。
電話なんかを彼女がしてくるはずもなく、入院中、篠崎先輩を伝って渡された手紙が最後のコンタクトだった。手術の直前に渡されたそれは、とても優しい言葉が連なっていて、だけどその言葉達は上っ面だけのものではないのを俺はよく知っている。よく知っているなんておかしいかもしれないけど、とにかくわかるのだ。そんなことを嘘で言うような人ではないと、わかっている。

――成功したら泣いて喜んでいいと思う。

絶対成功するなんてことを、彼女は一言も書かなくて、ただその一文で締めくくられた簡潔で優しい手紙は、まるでお守りのようで。手術室の前で待っていると言った母に、その手紙をずっと持ってもらっていた。

『あら、これ……』
先輩から、送られてきたんだ。――できたら今度、紹介するよ』

紹介、できればいいと思う。
篠崎先輩によると、先輩は今年の春休みまでには帰国するらしいということで。その頃に、彼女は会いにきてくれるだろうかと。俺からじゃ連絡のしようがないのは、ケータイ番号も、メールアドレスも知らないからだ。

(今思うと、先輩はかなりずるい)

そう。ずるいんだ。篠崎先輩を通してしか連絡をしてこないから、俺は彼女に連絡を取れない。ただ、何か伝えたいことがあれば篠崎先輩が自分の手紙のついでに送ってくれる。それを利用するしか手立てはなくて、そしてその返事も篠崎先輩に充てられた手紙に応えがあるだけで。

そんなことを考えているうちに、退屈な卒業式は終わってしまっていた。卒業したというのに、まだ気持ちは晴れない。どうしてか? そんなことはなんとなくわかっている。立海を卒業できても、彼女への想いにけりをつけていない。
終わらせることも、始まらせることもできていないまま、中途半端なままにこの三年を過ごしてきたからだ。

一昨年、去年と同じく、驚くほどに多い生徒達が卒業生を見送る。テニス部の状態は一向に変わらない。部活外からも惜しまれ涙の別れとなるのが定石だと、三年間本当にその通りになった。生徒達が校門に向かって生徒達の群れを潜り抜けていく。

「幸村」
「……篠崎先輩」
「卒業おめでとう」

あの日は俺が言った言葉を、今度は篠崎先輩が笑って言う。俺は思わず一瞬立ち止まり、慌ててそちらへ移動した。流れが止まると、人が多いだけに面倒なことになるのを、去年キッチリ見ている。

「いいの? 列抜けてきて」
「いいんですよ。篠崎先輩に呼ばれたんじゃ断れません」
「あら、いいのかしら、そんなこと言って。幸村が絶対喜ぶことなのに、教えてあげないわよ」

少し、一昨年の流れと重なる。何だろう、この既視感は。

「この後時間あるでしょ?」

ああ、紛れもない。デジャビュなんてそんなものじゃない。一昨年に経験した、それと同じだ。俺が苦笑し、「あること前提なんですね」と言うと、「だってアンタ、もう引退してるじゃない」とやっぱり部活絡みの、至極真っ当に聞こえる理由が帰ってきてまた笑った。


「じゃ、ここにいてね」
「え、どういうことですか」

喧騒から離れた裏庭の、あの日連れて来られたのと同じ場所に来て、篠崎先輩は一人で踵を返した。彼女の用ではないのか? そう思い、少し、ドクンと心臓が鳴る。もしかして、という小さな希望がある。外れたらどん底にまで突き落とされそうな、そんな予想を、当たれ当たれと脳が興奮しているのがわかる。

「ま、すぐにわかるわよ。じゃあね」

不遜に見えるな態度。最後に呟かれた、「使いっぱしりもいい加減飽きたわ」とその言葉に脳のそれが確信に近づく。
そうであったら、どんなにいいだろうか。でもまだ、どん底に突き落とされてはたまらないと、理性が脳に働きかけた。
だけど。

「幸村くん?」

篠崎先輩が行ったのとは別の方向から、声がした。

、先輩」

離れていた月日を感じるのは、彼女の髪が前よりも少し伸びたからか。それとも、彼女が立海の制服を着ていないからか。

「背、伸びたね」
「成長期ですし」
「そうだね。――卒業、おめでとう」
「……ありがとうございます」

ちゃんと笑えているだろうか。卒業式ですら泣かなかった自分が、今無性に泣きたくなっている。泣きそうになっている。長い髪を居心地悪そうに触る先輩が、幻ではないと理解してから。桜の木の下で、陰になった場所にいるから、また消えそうだな、などと思う。そしてそれは嫌だと、歓喜に震えた頭が叫ぶ。
一昨年、先輩がくれた第二ボタンは、お守りのように小さな袋にしまって、毎日持ち歩いていた。

「――全国、見てたよ」
「え?」
「あの日だけ一時帰国したんだ。巴が日取りを教えてくれたから。……あの時は会わないほうがいいと思って顔を合わせなかったんだけど」
「……はい。あのとき出てこられたら、大分かっこ悪いですし」

よく、わかってくれているな、と思った。あの後先輩に会ってしまったら、どんなことになってしまっていたかわからない。先輩にかっこ悪いところを思い切り目撃されていたかもしれない。精一杯戦って、それでも負けた。それで終わったら頑張った、かっこよかった、それで終われたと思う。

「凄く強くなってて、びっくりした」
「……はい」
「あと、直接お見舞いいけなくてごめん」
「いえ、それは全然……」
「幸村君の手術の日、私向こうでコンクールに出てたよ。課題曲がなんていうか……――愛の曲で、それを、幸村君のことを考えながら弾いたら、これが優勝して」
「え!」
「……今恥ずかしいこと言った?」
「……結構」

「だよね、私も恥ずかしかった」。そう、少し赤くなる先輩を見て、こっちも赤くなる。後輩には見せられない顔だな、と手で緩む口元を隠した。なんて可愛いことを言うんだろうと、この人は本当に先輩かと、思う。だけど先輩は案外、率直にものを言う人だった、と思う。

「卒業式だし、と思って……告白、しにきたんだけど」
「……は?」
「何も言わずに留学したのも、本当に悪いと思ってるんだけど。幻滅されてるかもしれないし、嫌われてるかもしれないと」
「そんなわけないです。俺、先輩が好きです」
「あ」
「?」
「先に言われた」
「あ」

俺の顔が間の抜けた感じになっていたのか、先輩がクスクスと笑った。こんなに全開で笑っているのは、初めて見る。心臓がドキドキする。

(やばい。……可愛い)

先輩はやっと笑いを堪えて、真っ直ぐに俺を見た。少し赤い頬が、これから何を言うのかを暗に示しているように思えて。

「好きです。……私とお付き合いしてくれますか?」

ああ、可愛いな。ずっと会っていなかったからか、余計に。
途中で好きでいることをやめなくてよかったと、本気で思う。諦めなくてよかった。篠崎先輩にいらないと言わなくてよかった。

先輩の腕を引っ張って、影の外へ連れ出した。もう随分とついた身長差は、彼女を俺の腕の中にしっかりと閉じ込めてしまえるくらいになっていて、最後に会ったときよりもずっと、先輩を小さく感じる。

「よろしくお願いします」

緩む表情を隠しきれないで、だけどそれを見られたくなくて、抱きしめた先輩の肩に顔をうずめた。彼女はそれがわかっているのかクスクスと笑って、俺の背中に腕を回し、頭を優しく撫でる。
ああ、どんなに大きくなったところで、先輩には敵わないんだと、惚れた弱みを痛感した。

かみさま、特別をください

  • 2012/03/10
  • 12
    読み込み中...

add comment