『好きなの』

真っ直ぐに言った私の言葉に、あなたは目を逸らしたね。『そうか』ってそれだけ言って、視線は下にしたままで。ねえ私、変なこと言った? そんなに困らせるような事だった?

『大好きなの』

自分の口から震えた声が出たのがわかった。驚いたように私を見るあなたに微笑んだ私の表情は、弱々しいものだっただろうか。

『それを言いたかっただけなの』

そう言って逃げるように帰ってきた私は、そのままベッドに倒れこむ。彼の予想外の表情に、私だって狼狽えていた。どうして、どうしてあんな顔をするのかと、問い詰める元気すらなかった。言いたかっただけだなんて、嘘だ。好きなだけ。ただ、大好きなだけ。モトイの側で、モトイの隣で、一緒に生きていたいだけ。そう告げたくて、だけど尻込みをした。大人で、けれどいろんなことを抱えている。いろんなことを考えている。そんなあの人の側にいて、いろんなことを話してもらいたい。それだけなのに。

(あんな顔、させるつもりじゃなかったのに……)

受け入れられもしないとは、考えてもみなかった。手もつないだし、デートだっていっぱいしたのに。もしかしたら、モトイにとってあれは、デートでもなんでもなかったのだろうか。妹のような存在との、ちょっとしたお出かけみたいな、そういうものだったんだろうか。モトイも私と同じ気持ちで、私に接してくれていると思っていたけれど、それは私の思い違い? あんなにモトイを見ていたのに、見間違えていたのだろうか――……いや、見すぎていたからこそ、だろうか。

ゴロン、と寝返りを打った。今まで溢れ出るそばから流れ、枕に吸い込まれていた涙が、一度溜まって視界を揺らす。

どうやら彼の隣にいるのは、私では駄目らしい。

真っ暗な部屋の中、小さくもう一度だけ「好き」と呟いた。

どんな顔をして会えばいいのかとか、そういうことは考えなっかった。彼が私を拒んだのは事実のような気がしていた。今まで通りいこう。今まで通りに。それならきっと、モトイだって気まずくならずにいてくれる。そういうずるい考えが、私の中にはあった。


「おはよう!」

はモトイに駆け寄った。彼の横に並んで、背の高い男の顔を見上げる。その角度が彼女は好きだった。そして、見下ろす彼もまた、好きだった。手が触れるか触れないかの距離を並んで歩く。里の人々に挨拶をしながら、二人はそうしている間笑顔を絶やさない。いつしか他人にとっても、とモトイが並んで歩いている姿は見慣れたものになっていた。ああ、あの二人、また一緒に居るよ。そんなふうに噂されていることなどつゆ知らず、当人達はその時間を目いっぱいに満喫する。

「任務は?」
「今日は午前で終わりそうだ」
「そうなの。珍しいねえ」

の声は誰と話すときよりも一段と明るく、甘い。そしてモトイのそれも、いつもよりも優しく穏やかなものだった。その様子はさながら恋人同士のようで、見ている人達はそれを疑わないが、当人達の間では僅かにわだかまりを感じている。

(ああ、こんなことなら言わなきゃよかった……)

は一瞬そう思ったが慌てて頭を振った。そんなことはない。伝えることができて嬉しかったのだと、彼との関係に後悔など一つもないのだと、そう思うのは本心であるのに、それすら苦い思い出にしてしまうのは嫌だった。


彼女の様子を見て眉間に僅かな皴を刻んだ。直接的な告白に困惑し、彼女を傷つけてしまったことを自分自身が悔いている。それでも笑いかけ、いつも通り接しようとしてくれる彼女が愛しくて愛しくてたまらないのに、それを伝えてやれないことに嫌気がさしそうになっていた。
歳は大きく離れている。彼女からすれば俺はオジサンなのだ。それでも好きだと言ってくれる彼女がどこを好いてくれているのかはよくわからないが、伝えてくれたそれを疑ったりはしない。

幼い頃からよく懐いてくれている隣の家の女の子。昔ならば妹のように思ったが、今はそうじゃない。大きくなり、体系が変わり、大人びて、それでも無邪気さを残す。そんな明るい少女が気になって気になって仕方がなかった。朝の挨拶が嬉しかったし、昼に会ったとき笑顔で手を振ってくれる彼女の表情が好きだったし、夜帰りが遅いと心配になった。なんにせよ、顔を見れば安心するし、顔が見えなければ見えないで考えてしまうのだ。今は何をしているかな、などと、いい歳したオジサンが何をと言って笑われるかもしれないが、だって「もっといい人いるでしょうに」と呆れられるかもしれないのを勇気を振り絞って伝えてくれたのであって。

悶々としだした頭に区切りをつけた。彼女が勇気を出してくれたのに、自分が何もしないわけにはいかない。不甲斐ない姿を彼女に見せたくはない。
俺は決心して「」と彼女の名前を呼んだ。

「なに?」
「今日の夕食頼めるか?」

そう聞けば、は花のような笑顔を浮かべて照れくさそうに小さく頷いた。俺はそれを見てホッと安心し、自宅の鍵を彼女に差し出す。それを彼女は複雑そうに一瞥して、それから苦笑して受け取ってくれた。「どういうつもりなんだろう」ってとこか? ごめんな。いつだってお前はわかりやすく、好意を表してくれるのに。

都合がいいと言われてしまうかもしれないけど、俺もお前に伝えたいことがあるんだ。


受け取った鍵で扉を開けて「おじゃましまーす」と誰も居ない家に声をかけてからモトイの家へ上がった。モトイの家はモトイの匂いがする。落ち着く。凄く落ち着く。だけど私を拒絶したのに鍵を渡すって、どういうことなんだろう? 複雑な思いが胸を占めるけど、モトイにお願いされるのは嬉しかった。今でも彼の中に私は居て、彼に心許されていて、頼ってもらえる。「は料理が上手だな」って笑ってくれるモトイを思い浮かべ口元がニヤけるのを、誰も居ない家で堪えたりはしなかった。
勝手知ったる台所に足を踏み入れる。ここのことなら家主であるモトイよりも詳しいかもしれないな、と思うほど、私は彼に手料理を振る舞ってきた。口に合うかな? と思いながら出した新しい料理に彼が微笑んでくれるときが何よりも幸せだった。もう私の考え着く限りの料理を彼は食べ、味わい、笑ってきたのだから、これから新しいメニューをと言われると難しいけれど、それでも毎度毎度「美味い」と言ってくれる彼のために食事を作るのは楽しい。

(今日は精一杯腕を振るおう)

腕まくりをして気合を入れる。モトイが好きな、モトイのための、夕飯にしよう。私がそうしたい。そう思いながらいつも通り、けれどいつもよりも丁寧に食事を作り始めた。


「ただいま」

モトイは夕方頃に返ってきた。「おかえりなさい」と振り返って微笑めば、彼も同じように笑ってくれる。

(新婚みたい)

なんて、前は思っていたけれど、今はどうだろう。前と変わらぬ甘い空気を感じるのは私の錯覚だったのだ。苦い気持ちを少しだけ抱いて、けれど表には出さないようにしながら彼に話しかける。

「手、洗ってきちゃって。もうすぐ食べられるから」
「わかった」

モトイと長時間一緒にいても大丈夫だろうか。私はそんなに長い間笑っていられるだろうか。今でも彼の横にいられることはとても幸せだけれど、やっぱり胸を締め付けられるようなこの感覚はあまり気持ちのいいものではなかった。だって昨日の今日なのだ。そりゃあ苦しくもなるし辛くもなる。きっとこの辛さは時間が経てば癒えていくものだと思うけど、逆に言えばそんな短時間でどうにかなるようなものでもないということだ。
ふう、と小さく息をついたとき、モトイが帰ってくる足音がした。

「ちょっと待っててね、よそっちゃう」
「ああ、俺も手伝う」
「そう? ありがとう」

自然と私の隣に来てお玉を手に取り、汁物をお椀に入れていく彼に心がホカホカと温かくなるのに、逆の感情もあるのだ。そんな状態は嫌だった。もっと純粋に、温かいだけの気持ちで彼の横に居たいのにそれができない自分が不甲斐ない。ああ、私はやっぱり子供なんだな、と思うと一瞬目頭が熱くなった。
料理を机に運んでいく。いつものように向かい合って座り、二人「いただきます」と声を揃えた。味見はしてあったけど良い味付けだ。モトイの好み通りだと、思う。彼の好みを散々知って、彼のことを考えて何度も何度も作ってきた味だ。早々変わることはないだろう。例え彼以外の人を好きになることがあっても、これだけはきっと変えられない。彼のための味だ。

「……
「なあに?」
「話があるんだ」

妙に真剣な顔をして、モトイが私を真っ直ぐ見つめた。


が不安そうな顔をしているのを見て、俺は情けなくも一瞬泣きそうになった。を不安がらせている――悲しませているのは、まぎれもなく自分だとわかっている。彼女の真っ直ぐな気持ちに真っ直ぐ向き合わなかった。明らかに、一方的に、俺が悪い。驚くことなんてなかったはずだ。が俺のことを好いてくれているのなんてわかり切った話だった。そして、俺の気持ちだって。

ただ驚いたんだ。彼女がいつの間にか子供でなくなっていたことに。少女から女性になっていたことに、驚いて口が開けなかっただけなんだ。

そんなこと、にわかるわけがない。言えるわけがない。彼女との歳の差に怯えたことも、彼女の将来を想ったことも、他の相手がいるんじゃないかと考えたことも、何度もある。そして昨日、あの後また深く深く考えた。それでも俺は彼女が好きなのだ。どんなに歳が離れていたって、でなくては意味がないのに同年代の女性なんて探せない。そりゃあ怖いさ。お前が周りからなんて言われるんだろうかとか、考えたら恐ろしいんだ。こんなに歳の離れた男でなくたって、と思いもするんだ。

だけど、俺を好きだと言ってくれるが他の男と寄り添うことに俺は耐えられるのか?

耐えられるわけがなかった。そう考えるだけで頭に血が上りそうになる。頭が真っ白になりそうになる。目の前が真っ暗になりそうになる。悪い夢だと振り払うまでにどれほど眉間が皺を刻んだか、それをに伝えなければならない。彼女を傷つけた分、今度は彼女を幸せにしなければならない。――いや、したいんだ。ただ、俺が、誰でもなく俺が、そうしたいんだ。

「なあ

ピクリと彼女の細い肩が揺れる。それでも綺麗に笑って見せる彼女の強さに俺は眩暈がしそうだった。ああ、好きだ。愛おしい。そんなことは前からわかっていた。だから、俺は前から思っていたことを伝えるだけでいい。そうして彼女を抱きしめて、彼女が幸せになるのを一番近くで見ていればいい。そうしていたい。そうさせてほしい。
は知らない。こんないい歳したオジサンが、お前の一挙一動どころか表情一つにすらこんなにも揺さぶられていることを、は知らない。

「昨日は、黙ったままで悪かった」

そう言えばは眉を顰め、痛々しいほどの笑みで頭を振る。「ううん」と小さく出した声すら少し震えている。ああ、もう今すぐにでも抱きしめてあやしてやりたいだなんて、そんなことを思っている場合じゃない。

「あのな、俺」

耐えられなかった俯くの頭を机越しに小さく撫でて、そうするしかできない今の距離がもどかしかった。

の事、本当は好きだよ」

静寂。そして、一つ間を置いてが頭を上げる。頬を朱に染めて目に涙の膜を張って唇をパクパクさせるその様子が、昨日の彼女とも無理に笑っていた彼女とも違う彼女らしさで。

「ほ、本当に?」

「無理してない? 私のこと、本当に、本当に、好きって言ってくれるの?」。涙が一粒頬を流れた。わかっているさ。こんなオジサンがこんな若いのに手を出して、手放しで受け入れられることじゃないことくらい。だけど仕方ないだろ? どうしても可愛いんだ。こんな、好きって一言で泣いてしまうようなこの子が。
頷いた俺にが席を立つ。邪魔な机をパッと回り、俺の横から飛びつくように抱きついた彼女の小さくて軽いこと。抱きしめ返し、背中を撫で、その甘い匂いに酔いながら思う。
障害はいくつもある。歳の差ってのは案外厄介なもんなんだ。それのせいで喧嘩もするだろうし、それのせいですれ違うことも傷つくこともあるだろう。

だけど、それでもお前が好きだよ。

一言が嬉しすぎたの

「親に彼氏つくれって言われてたの」「え」「旦那さんできたって、言っていい?」「……ああ、いいよ」
  • 2014/08/01
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