翼が生えている。

そう思った。ずっと昔、訓練兵の頃に。立体機動を難なく操り空を飛ぶ彼は、私には鳥のように自由に、軽く、飛んでいるように見えたのだ。
けれど今は少し、しんどそうだ。人類最強の名に集まる期待、責任、部下の命。たくさんの重荷が彼の背中に容赦なく圧し掛かり、落ちることなくこびりついている。それでも空を舞うあの姿は、私の目をより一層離さなかった。決して自由でなくなった彼が、翼を背負って飛ぶ姿は、私に勇気と希望と、僅かな不安を与えた。いつか彼がつぶれてしまうのではないか、とそんな不安と共に、そうならないために私に何かできはしないだろうかと考える。彼が折れてしまえば、全ての希望が費えてしまうような気がした。

体を覆う大きな手の平。ミシミシと鳴る全身の骨がそろそろ限界だということを知らせている。肺が圧迫されて呼吸が苦しいのを、入ってくる薄い酸素で何とか耐え忍んだ。それすらもう、意味がないのでは、そう思ってしまう自分に嫌気がさす。唇をかみ締めたのは痛みを堪えるためか、それとも心を焼くほどの悔しさか。血の味を鮮明に感じながら、私は何とか情けない声を出さないでいようとより一層歯に力を込めた。フラッシュバックされるのは、今まで無残に噛み千切られてきた仲間達の姿とその断末魔だ。朦朧とする意識の中でやけに静な頭は、一人の男に「ごめん」と謝罪する。

私はここで死ぬのだろうか。

ボキッと何本かの骨が鈍い音を響かせて折れた。もう目を見開けないほど、頭に酸素が回っていないのがわかる。薄く開いた瞼の向こう側で、太陽が嫌味なほどに煌いていた。昔、蝋の翼で空を飛んだ男が太陽に翼を溶かされて落ちた話を思い出す。ああ、不吉だ。私は今その男と同じように、落とされようとしているような気がして、やり切れない思いを抱く。

目の前を影が通った。

私を食おうとしていた巨人のうなじが削げ、熱風が吹き抜けた。霞む視界でその切り口を見て、私の腰を攫い、抱え込んでいるその腕の主が誰なのかを悟る。決して溶けない翼を持ったあの男が、今私のすぐ側にいるのだと思うと、情けなくも涙が出そうになる。名前を呼ぼうと口を開いてもヒュッと掠れた空気が出るだけで、音になってはくれなかった。私が話そうとしていることに気付いた彼は、チッと一度舌打ちをして、面倒くさそうな手つきで私の薄く開いた目を閉じさせる。

「黙ってろ」

ぶっきらぼうな言葉の中に私への気遣いを見た。ああ、相変わらず優しい人だ。それだから私は、生きたいと願う心で捨てて行ってくれと懇願しそうになる。けれどあなたが黙っていろと言うのなら、壁の中に入るまでの少しの間、私は黙っておこう。

そうしていればきっと、この人が連れて行ってくれると信じて、私は意識を手放した。


「……っ」

目を覚ますとそこは病室だった。室内を視線だけで見回すが、他のベッドには誰も寝ていないようだ。死んだ者はいるかもしれないが大きな怪我人もいなかったようだと小さく息をつきそうになり、空気が喉のところで引っかかる。どれくらい寝ていたのかは知らないが、随分と喉が渇いているらしい。
傍らの硬そうな椅子に座り、目を瞑る男に目をやった。ずっとここに居てくれたのだろうか。暗闇に覆われた窓の外は、今の時間がどんなに夜に染まっているかを告げる。体を起こそうと力を入れると、全身に鈍い痛みが走った。骨が軋んだような気がして、起き上がることを断念する。痛みに耐えたその衝撃でベッドが僅かに鳴ると、その音で彼が薄く目を開けた。

「……目が覚めたのか」

「大人しくしてろ」とそう言って、リヴァイは起き上がろうとしたせいで乱れた布団を私にかけなおした。私は苦笑するように微笑んで、彼に手を伸ばす。その手は伸びきる前――伸ばしかけたところでリヴァイの手に包まれた。硬くて大きい、力強い手だ。私の右手を持つ彼の右手は、同じ右手なのに全然違うものに見えた。壊れ物を扱うように丁寧に触れる手を感じる。ああ、生きていてよかった。一度は捨ててくれと思った命を心底惜しんでいる自分がいる。

「……リヴァイが風邪を引くと思って、何かかけようとしたんだけど」

思った以上に掠れた声に、リヴァイは「自分の心配してろ」と眉間に皺を寄せる。まるで枯葉だなあと思うほどに乾いた声は、喉の渇きと一緒に私の体の憔悴を表しているような気がした。彼は傍らにあったテーブルの上から水を引き寄せると、コップに注いでくれる。水を飲むために今度こそ起き上がろうとすると、やはり体が軋んで動くのを躊躇するのがわかって、少し浮かした体をもう一度ベッドに預けた。そういえば意識を失う前、彼に助けられる前に何本か骨が折れていたんだったと思い出し、眉が寄る。これでは次に作戦に参加できるのがいつになるのか。

「痛むか」
「まあね。でも死ぬほどじゃないから」

情けなく歪んでいるのが自分でもわかるような微笑に、彼は何も言わず握る手に力を入れた。私の体温が下がっているのか、いつもは冷たく感じる手が酷く暖かいのが涙腺を緩ませる。

「……捨ててくれって言おうとしたのよ」
「そんなことだろうと思ったから黙らせたんだろ」
「ありがとう……黙らせてくれて」

遂には涙が流れたのがわかる。驚いたように目を丸くするリヴァイの手が、戸惑うみたいに力を強くした。調査兵団に入って泣くのなんて、初めてだ。
巨人の手の中で死を覚悟する感覚を、命を捻り潰されようとしている感覚を、鮮明に覚えているからこそ、あの時部下が助かれば自分はどうなってもかまわないと覚悟をして飛び込んで行ったのに、救われてみればこんなにも自分の命が惜しい。この手がこの人に握ってもらえていることが、頑なに離さないでいてくれることが、こんなにも嬉しい。

馬鹿なことを言わないでよかった。諦めきれなくてよかった。この人を信じて、この人に身を任せて、よかった。

もしもあの時「私なんか捨ててあなたは逃げて」なんて言っていたら、ぼやける視界の中でリヴァイはその表情を悲痛に歪めていたのだろうか。そう思えばより一層、口も利けなかったことに安堵する。
止め処なく溢れる涙を、少し落ち着いたリヴァイの左手が掬った。掬われても掬われても止まらないそれを、リヴァイは何度も何度も根気強く拭って、何も言わない。

「助けてくれて、ありがとう」
「……もう諦めんじゃねーぞ」

「そうね」と今度はさっきよりも上手く笑えた気がして、涙が出たり笑ったりチグハグな私を見てリヴァイは少しだけ表情を和らげる。私が目を覚まさない間、彼が気を張り詰めていてくれたのだということがわかり酷く申し訳なかった。

「お前が助けた兵士は無事だ」
「そう……尚更、死ななくてよかった」

彼に重荷を背負わせるところだったと言うと、その重さをよく知っている彼は一瞬瞳を翳らせる。部下をたくさん救った分、目の前でたくさん失った彼にとってそれは人事ではないのだと気付くと、私はリヴァイにまで背負わせるところだったのだと思うと心臓が冷え、上手く動かない体が身震いをした。今度は私の手に力が篭る。

「リヴァイだと思ったから、黙れって言われて黙ったの」

彼は私達の希望なのだ。彼がいるから、まだ前を向いて立っていられる。壁の向こうを見ることができる。視線を上げていられるのだ。
その責任はどんなに息苦しいだろう。
幾多もの屍を乗り越え、流れた血を背負って、それでも飛ばなければならない。彼には立ち止まることも、下を向くことも許されていない。ただ時々振り返り、自分達の越えてきた道を見て心を痛め、また進む。彼はきっと、ずっとそうしていくのだろう。人類全てとも言える希望と絶望を背負って飛び続けるのだろう。

「……皆はリヴァイに希望を託すよ。私もそう。一緒に背負うことは、できる自信がないけど、あなたは私に少しでいいから希望を預けて」

そう、不意に口をついて出た言葉は、ストンと私の心に落ちてきた。彼が折れないために、私にできる僅かなこと。
リヴァイはいつの間にか止まっていた涙の残りを拭いきると、目を見張ってから口元に笑みを浮かべた。

「死にそうな奴が何言ってんだ」

茶化すように、けれど手を握る力は今までで一番強い。

「死に掛けたから、一度諦めかけたから、もう諦めない自信だけはあるよ」
「……そうか」

もうあなたを裏切るような、そんな気持ちは、そんな考えは持ちたくないし、持たない。自分でも意外なほど、決意は固かった。この手を離さないように、彼が折れてしまわないように。私はそれのためなら必死になれる。
掠れた喉でしゃべりすぎて、ケホッケホッと咳が出た。そうするたびに体が揺れて痛い。いいこと言ってるはずなのに、説得力がないなあと、やはり自分を情けなく感じながら、息をつく。するとリヴァイがさっきコップに注いだ水を口に含み、私の首の後ろを掬って頭を持ち上げた。

「なに? ……っ」

唇が触れる。
目の前に広がる彼の顔に瞠目して、しばらく瞬きを忘れた。口付けられたところから口の中へ水が流れ込んでくる。生き返るような気持ちになりながら、私はとにかく深く考えないでおこうと水を飲むのに躍起になった。私が喉を鳴らし終えると、リヴァイがゆっくりと離れていく。赤面している私の顔を見て「赤ぇ」と笑った彼は、心なしか晴れ晴れとしているように見えた。

真っ赤になる顔を開いている左手で隠そうと躍起になりながら、私を呼んだ彼の方へと視線を向けた。彼は私の手を握りなおし、一度ギュッと痛いほどに力を入れる。

「俺の希望は、お前に預ける。お前に預けよう。……だから、お前も折れるんじゃねーぞ」

真っ直ぐな、揺らぎそうもない瞳が私を見ている。溶けない翼を広げるあなたの逞しい背中を、こんなにも情けない私に預けてくれるというのか。それはもう奇跡のようで、私はまた泣きそうになってしまった。体が痛いからか不安から開放されたからか、人生で一番涙もろいこの瞬間に、彼が泣かすようなことを言うのだ。

「……っ、うん」

しゃくりあげながら手を握り返して、私はまだ起き上がれない体で誓う。
あなたが折れなければ、私は折れない。だから、私が折れなければあなたも折れないと、今ここで誓ってみせて。

翼ala折れない心は

  • 2014/02/16
  • libertas
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