壁の向こうから帰ってくる彼等の目を、幼い私は凝視していた。青い空を反射するような真っ直ぐな瞳。どれだけ税の無駄遣いだと言われても、どれだけ戦死率が高くても、私達が恐れて見ることのない壁の向こうへと赴いて、その景色を、情景を、その目に少しでも刻み付けて帰還する兵士達は、とても力強く、かっこよく、儚いもののように見えた。幼い私の目に映る彼等の背中は大きくて、私もああなりたいと、あんなふうに生きてみたいと、そういう思いを刻み付けて行く。泥臭く、血生臭く、どうしようもなく危険でリスクの高いものであると幼いながらに、幼いからこそ、本能で理解していても、それでも――


(三人は、無事かな)

は荒い息を整えようと壁に手を付いて深い呼吸を意識する。頭の中には三人の幼馴染の顔が浮かび、彼等の無事をひたすらに願っている。目の前で巨人に食いちぎられた父母の姿を思い浮かべようとするも、十歳の彼女にとってそれは耐え難い苦痛であった。泣きたくもないのに鼻の奥がツンとする感覚に、は頭を振る。壁に背を任せズルズルと膝を折るが、休まる気はしなかった。
息は一向に整わない。荒れた脈拍を、自分の耳で聞いているような錯覚。生きるか死ぬかギリギリのやり取りに、彼女は家から持って出てきた包丁を握る手に力を入れた。そんな小さな刃が奴等にとって何の意味も持たないとわかっていながら、少女はそれに縋らずにはいられない。力みすぎた小さな手がブルブルと震え、目は瞳孔が開いている。歯を食いしばり奥歯が鳴るのを聞きながら、は耳を澄ました。

(…………)

途端、神経が拾った音には息を殺す。大きな足音が二つ迫っているのを、彼女の鋭敏な感覚が素早くとらえたのだ。壁に任せた背を冷や汗が伝う。彼女の左右の後方から迫るもの。右がやや近く左はやや遠いが、ほぼ同じ速さで走ってきているのを少女の耳は鮮明に捉えていた。皮肉なことに、父母が死ぬ時よりもより一層強く。

まるでお前はここで死ぬのだと言われているようだった。

目を強く瞑り、一瞬諦めかけたのは、ただでさえ巨人は大きいというのに自分はまだ子供であることを彼女自身、嫌というほどに理解していたからだ。涙が湧き、溢れるようだった。(死にたくない、死にたくない……)。そう、はただひたすらに思う。巨人から隠れるために息を潜めていたことすら忘れ、頭をブンブンと振る。彼女の頭の中には今、母のことも、父のことも、幼馴染達のことも浮かんではいなかった。ただ、それだけなのだ。

ボロボロと涙を流しながら、その幼い手で一途に生にしがみつく。ただ、それだけ。

食いしばっていたはずの歯は強く噛み締めすぎて唇を巻き込み、鼻孔は己の血の臭いを感じていた。開いた目は涙で満ち溢れ、それでいて子供とは思えないほどに貪欲な何かを湛えている。の脳は、体は、隅々まで行きわたる神経は、彼女の短い人生の中で一番鋭く研ぎ澄まされていた。頬を叩き、懇願とも言うべき想いで手の中にある刃を握る。それだけだ。今、を支えているのは、その心許ない刃ただ一つ。
一度だけ、あの兵士達の背中がフラッシュのように目の裏を通り過ぎて行った。
彼女は聞き取った足音から、やはり右側から迫る巨人の方が早く自分の所へ辿り着くということを察していた。震える膝を一度拳で殴りつけ、立ち上がる。そして、走った。


(エレンみたいに勇気を持っているわけじゃない。ミカサみたいに強いわけじゃない。アルミンみたいに賢いわけじゃない)

緊張の限界を突破し、逆に冷静になっていく頭の中に、幼馴染達の顔が帰ってくる。四人で遊んだ日々はとても穏やかで、平和で、こんなことになるなんて、エレンの言葉に同意しながらも、私は本当は思っていなかったのだ。こんな事態、きっとエレン本人ですら、本当に想像できていたわけではないのだ。私達は今、想像もできないほどの恐怖の中に身を置いている。

(……けど)

あれは走馬灯だったのだろう。優しくも厳しい母の姿、寡黙だが穏やかな父、喧嘩をするエレン、止めるミカサ、心配するアルミン。そして、それぞれの笑顔。巨人に挑むと決意を固めても、心のどこかで死を振り払えなかった。

(生きていたい……)

涙は枯れることなく溢れ、流れていく。右側へと駆けだした私は、思ったよりも大きな巨人の足を目前に小さく震えた。その震えを、刃を強く握ることで何とか誤魔化して、自分でもわけのわからない咆哮を上げ、切りつけた。小さな私を見落として上を通り越していった巨人のアキレス腱を渾身の力で削ぎ落す。巨人は歩を進めることができずバランスを崩し、砂煙を上げて前方へ倒れた。

自分で起こしたその事態に呆気に取られ、途端に座り込む。腰が抜けたように動けない体で巨人の足がやけにゆっくり修復していくのを見ていた。よく見てみればその巨人は方々に刀傷を負い、そこらかしこを修復している最中のようだった。へたり込んだ私は、物音を聞きつけたらしいもう一体の巨人が、私が居た路地を曲がってこちらへ迫ってきているのを視界に入れながら、対処することなく茫然として座ったまま何もできないで、それが迫ってくるのを見つめている。
限界だった。恐怖も、緊張も、幼い私の心身に立っているのも苦痛なほどの疲労をもたらして、指先の一つすら動かさせてくれない。

「リヴァイ!」

その時、声がしたのだ。

私の真横を、何かがビュッと風を唸らせて通って行った。その何かは、私が転倒させた巨人のうなじを削ぎ、立体機動装置のアンカーをもう一体の巨人に打ち込み、そちらのうなじも難なく削いで、しばらく周りを確認すると何事もなかったかのように下りてきた。

「大丈夫かい?」

さっきの声と同じ人の声が、私の背の後ろから聞こえた。ゆっくりと振り返ると、そこには何度か兵士達の列の中に見た眼鏡の人が居て、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。ボーっとする私に苦笑し、「私はハンジっていうんだ。きみは?」と問うその人に、私は自分の名前を掠れた声で告げる。「、大丈夫かい?」。再度問われたその問いに、私は小さくうなずいた。

「……だい、じょうぶです」

するとその人は微笑んで私の体を抱き寄せると、「見えていたよ。よく頑張ったね」と一言、耳元で囁いてくれた。涙腺がまた緩む。私の顔は涙でぐずぐずになっていたに違いなかったが、ハンジさんはそんなことは気にしていないようだった。せめて鼻水だけは付けまいと、必死で鼻をすする私に、リヴァイさんが「おい」と声をかける。ハンジさんに抱きしめられたまま振り返ると、彼越しに見た空は日が傾きかかっていた。
リヴァイさんは何かを言いかけて、けれど口をつぐみ、大きな手で私の頭をグリグリと撫でる。「よくやった」。たった一言をつむいだ声は、予想していたよりもずっと優しく、柔らかい。巨人に向いていた鋭い視線とも、壁外から帰ってきたときのあの目とも違う瞳は私に父を思い起こさせて、頬を一番の大粒の涙が駆け下りて行った。彼はその親指で私の頬の涙を拭い、私の目を真っ直ぐに見つめる。怖かっただろうと、言われている気がした。けれどそれと同時に、

ついてこいと、言われている気がしたのだ。


私達はもう、訓練兵ではなくなる。
トロスト区での戦闘を体験し、疲弊する私達にはそれでも時間はあまり与えられなかった。戦死した仲間達を悼みきれないまま調査兵団の勧誘の言葉を聞くこの同期達は、いったいこの先どうするのだろう。そう思いながらも、私は団長の話に耳を傾け、決して揺るがなかった己の意志のままに突き進むことを決めていた。

(ついていく。……例えどれだけ血の流れる場だとしても)

覚えているからだ。あの日、父母を亡くして尚生き延びようとする私を、無謀にも巨人に挑んだ私を、救ってくれた自由の翼を。

(――あの人の背中に)

私も、あの人と同じ翼を背負えるだけの兵士に、なれただろうか。――なっていけるのだろうか。

世間体を気にして兵士になる若者が多いこの世の中で、何人の人間が最初から調査兵団なんてものを目指して生きているのだろう。訓練兵としてやってきた数年の間で、その少なさは身に染みてわかっていた。皆、絶対的でない安全に差をつけて、その差のより上へ上へ――内地を目指し生きているのだ。その中に時々、エレンや私のような、酔狂な人間が混じっている。

私を真っ直ぐに見たあの目を思い出す。

五年前のウォール・マリア陥落以前、調査兵団の兵士達をかっこいいと思った。恐ろしい目に遭いながらも、外へ出て行くその勇気を想った。憧れた。幼心に、あの人達のように生きられたらと。そして五年前、彼のあの目を見て、その気持ちは強固に、深い火傷のように、私の心に刻まれたのだ。「あの人達のように生きられたら」が「あの人のように生きよう」になった。

そして今、この場に立っている。

真っ直ぐに前を向いた。いつの間にか同期の彼等は後方へ向かって歩いていっている。そんな中、私はエルヴィン団長と可能な限り目を合わせた。私のこの、幼い頃からの意志を示すように。

私はきっと、本当にいつまでも、この命が絶えるまで、あの人の背を追って生きていくのだ。

瞳pupilaそれに射抜かれたのは

  • 2014/03/07
  • libertas
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