少女の背中が膨らみだし、音を立てて現れた翼を彼は見ていた。大きく、力強く、そしてどこまでも漆黒。引き付けられるような何らかの力を持つ雰囲気を見せる。
彼の言葉一つ。それだけで彼女の背からは巨大なそれが現れるのだ。そして、彼の言葉一つで彼女は羽ばたき空を舞い、憎々しい人類の敵達の項を削いで回る。それはもう鮮やかに、一部の躊躇いもなく。


リヴァイは眉を顰めた。ボサボサの髪を纏めもせずに机に向かい、本を読み漁る――もといのめり込む少女を見れば徹夜は明らかだ。相変わらず埃の臭いがするほどに埃っぽい。こんな部屋では歩いただけで普通に掃除のされた部屋の倍は埃が舞い、彼女が次に読もうと横へ置いてある本にすら積るのではないか。そう考えると自然舌打ちが漏れ、その音で彼女は振り返った。

「リヴァイ様」

自分の業務を終えて来たであろう彼に「お疲れ様です」と一声かけると、リヴァイは「ああ」とだけ言って今まで踏み入れずにいた部屋に一歩足を進めた。不機嫌そうに歩きながらハンカチを取り出すと、それで鼻と口を覆う。この部屋に来て真っ白で清潔そうなそれを取り出してそうすることが習慣のようになってしまっていることに、彼はもっと厳しく掃除を教えるべきだったと思った。どうせ何を行ったところで今の彼女からは「掃除はいつかします」以上の何かは得られないだろうことを彼もわかっているが、この状況はいただけない。

「何してんだ」
「ハンジさんにお借りした書物を読んでいました」

彼女が時間を気にせず読書にいそしむことは珍しくない。そのせいで掃除を初め、食事や、挙句の果てには風呂まで忘れていることもままあるほどである。彼女の近くにある大量の資料を見、リヴァイは半分答えを予測しながら「風呂は?」と聞いたが、やはり期待を裏切らず――彼的には裏切ってほしかったのだが――「忘れていました」の声。それはそうだろう。ボサボサの髪には残念ながら艶がなく、聞かなくてもわかるといえばわかってしまう。大きなため息をついてから彼はつかつかとが本を読んでいるテーブルまで歩み寄ると、彼女の手元の本がもう少しで読み終わるらしいことを知った。

「待っててやるから読み切れ。それから風呂だ」
「今すぐでも問題ありません」
「俺が待っててやるっつってんだ」

「さっさと読め」と促しての視線を本へ戻させ、リヴァイは彼女を待つ体制に入る。それに従うようにして、彼女はリヴァイから視線を外すと普段よりも幾分早く文字列の上へ滑らせた。それを確認し、リヴァイも近くにあった椅子に座る。勿論椅子の上に薄く積もった埃を払うことは忘れない。

息をつく間もなく浮かぶのは壁の外のことだった。
幾度となく少なからず死を覚悟させられ赴いたその地と、そこに蔓延る無数の巨人。向かってくるそれらの項を削ぎながら、彼は今まで生き延びてきた。上官や部下の死も同輩の死も、彼の意志とは関係なく平等に失われていく命を思わない日はないと言ってしまえるほどに、何かふとした切欠があれば後ろを振り返りそうになるその現実に耐えて生きている。それは、何も彼だけにとどまらない。調査兵団の兵士にとってそうすることはある種の習慣のようでいて、避けようのない事柄だった。それは人類最強であろうと変わらない。仲間の死には、慣れるとか慣れないとか、そういう話ではないのだと彼は思っている。ただ、経験と共にその激情を抑える術を身に着けているだけに過ぎないのだと。

どれだけ巨人を削ぎあの熱を被っても、どれだけあの臭い空気を嗅いでも巨人が減っている気はしない。それでも彼は進まなければならないとわかっている。人類最強だと持ち上げられ、それらの希望として生きているからというだけではない。彼自身の意志でもあるのだ。

数日前、一介の女兵士がを「美しい」と評していたことをリヴァイは不意に思い出す。今はボサボサにしたままの髪も、手入れをすれば綺麗なストロベリーブロンドであるし、元の顔立ちは確かに美しい。けれどその兵士は何よりも「翼が」と言っていた。

『不安になるほど、美しいんです。戦場なのに、つい目で追ってしまって』

頬を紅潮させ、恥ずかしそうに鼻から下を両手で隠しながら先輩達にそう言う彼女をリヴァイは遠くから眺めていた。その美しい翼が次々と巨人を屠る。それを見ていると、戦場でありながら惚けそうになるのだと、そう語る彼女はあまりに純粋に、好意をまき散らしていた。
今、目の前で本を読み込むばかりに風呂を忘れた少女と同一人物だと知っても、おそらく彼女はその認識を一変させたりはしないのだろう。そう、自分を狂信とも言える瞳で見つめると同質の雰囲気を感じ取ったリヴァイは思った。

パタン、と本を閉じてが振り返る。それに反応し、彼は立ち上がった。は読んでいた資料を書籍の山の一番上へ積み上げると、同じように立ち上がり風呂へ行く準備をする。リヴァイはそれを視線で追っていたが、先ほどまでが本を読んでいた机の上に一冊の本が置いてあることに気が付いた。

(――紅茶か)

リヴァイに対し真っ直ぐすぎるほどの信頼を寄せ、巨人に鋭い視線を送る少女は、思えば紅茶が好きだった。その理由にすら自分が絡んでいるのかもしれないと思わないでもなかったが、それでも好きでなければ、興味がなければ、そうも勉強をしたりはしないだろう。思えば近頃は兵団の安い紅茶ばかり飲んでいたような気がする、とリヴァイは思考を巡らせる。

「リヴァイ様、お待たせいたしました」

リヴァイの方へ視線をやってが言う。準備が整ったらしい彼女に「行くぞ」と言いながら、彼は先ほど考えた事を頭の隅に置いて風呂への道を歩いた。はそんな彼の背を追いながら、リヴァイの指が自分の髪を洗う感覚を思い出し、嬉しさに薄く頬を染めた。


リヴァイは街に出ていた。給料が出てもあまり娯楽に費やす方ではない彼は、珍しくその使い道を思いながら人ごみの中を歩く。活気に満ちた市場を通り抜け、何本か奥の道の角に目的の店はあった。上品な赤い色の煉瓦を積み上げた壁は時代を感じさせるが古めかしさはない。深い緑色の扉の前に立ち、磨きあげられたように光る丸いドアノブを回して扉を開けると、カランコロンと綺麗な音がする。オレンジ色の落ち着いた灯りが照らす店内に、真っ白な髪を綺麗に整え、ノリのきいたシャツにフォーマルをキッチリと着た男性が居た。彼はリヴァイを見ると、眼鏡の奥で少しだけ目を見張ってから微笑む。

「これはこれは、兵士長殿ではありませんか」
「久しぶりだな」

店内いっぱいに広がる紅茶の葉の香り。店主の後ろには大きな棚が並び、様々な種類の紅茶が並ぶ。その数だけの香りがあるはずだが、喧嘩することなくこの店の香りを演出していた。何度来てもいい店だ、とリヴァイは思う。カウンター席が十、テーブル席が三つ。ここで飲むことも、茶葉だけ買って帰ることもできるが、正直に言えば店主に淹れてもらった紅茶が一番美味い。時々一人で来ては紅茶を淹れてもらっていたが、今日はそれが目的ではなかった。

「久々にいい紅茶が飲みたくなったんだが」
「ああ、それでしたら、ちょうどいいものがありますよ」

「少し待っていてくださいね」と店主は棚を振り返り目当ての紅茶を探す。やがて持ってこられた容器は他の物よりもまた一段上品で、上等な雰囲気を醸し出していた。店主はその葉で一杯分だけ丁寧に紅茶を淹れると、真っ白なカップに注ぎリヴァイに差し出した。美しい赤色の液体がカップの中で揺れるのを少しの間見つめ、カップへ口を近づけると爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。口に含めば仄かに甘く、すっきりとした味が広がった。

「いかがでしょう」
「美味い」
「そう言っていただけてその子も嬉しいでしょうね」

早々に購入を決め、包んでもらいながらリヴァイは試案した。これだけいい茶を適当に淹れたのではあまりに勿体ない。店主ほどとは言わずとも、自分でも今より上手く淹れられれば。そう思ったところで包みを差し出され、それを受け取りながらリヴァイは彼の瞳を真っ直ぐに見やった。

「淹れ方を教えてもらえるか」


兵団に戻ると調理場の方から香ばしい匂いが漂っていることにリヴァイは気が付いた。その香りに釣られるようにしてそちらへ向かえば、「リヴァイ様、おかえりなさいませ」とよく知った声がする。

「……何してんだ」
「ハンジさんとスコーンを焼いていました」

小さなフリルがあしらわれた白のシンプルなエプロンを付けたとハンジが匂いの元だったらしい。普通の物よりも厚手の鍋つかみに手を通し、二人は今か今かとスコーンの焼き上がりを待っている。何故突然、とリヴァイが思ったのに気付いたのか、ハンジが楽しそうに笑った。

「砂糖が結構な量手に入ってね! 有効に食べるにはどうすればいいかって話になったんだよ。下手にお菓子なんか作るより、ジャムにすれば日持ちがするし皆楽しめるだろう?」
「そのついでにスコーンってことか」
「そういうことさ!」

随分とタイミングが良かったな、とリヴァイは思った。が何の興味も持たずハンジの菓子作りに手を貸すとは思えず、ふ、と考えた時彼が買い物に行く切欠になった本を思い出す。もしかするとあの本にスコーンのことも載っていたのかもしれない、と考えてからリヴァイは改めてを見た。
普段よりもやや柔らかい表情でスコーンの焼き上がりを待つ彼女に、白いフリルのエプロンはよく似合っている。己が朝風呂に入れたおかげで髪も綺麗にまとまっているのを見て、リヴァイは満足気に小さく頷いた。

「リヴァイは何しに出てたの? あなたが出るのは珍しいよね」

ハンジの問いに顔を上げる。興味深そうにこちらを見るを見て、小さな紙袋を目線の高さにまで上げた。

「紅茶を買いに行っていた」
「紅茶、ですか……?」
「それが焼けたらついでに淹れる」

リヴァイが焼きかけのスコーンを指差すと、頬を薄く染め、彼の予想以上ににが喜ぶ。「はい」とはにかむように笑い、スコーンの焼き上がりを先ほど以上に楽しみにしているらしい彼女を見て、リヴァイは頭の隅で久々に店に行った甲斐があったと思った。

、もう少しで焼けるよ」
「はい。リヴァイ様、紅茶をお貸しください。淹れてまいります」
「いや、今日は俺がやる」

少しだけ驚いたような、疑問を持ったような顔をしてが小さく首を傾げた。

「美味い淹れ方を教わったから、楽しみにしていろ」

そう言い、彼は調理場の奥へ紅茶を持ったまま歩いて行った。

壁の外へ赴き巨人を屠る。その合間に、たまには小さな休息があってもいいだろう。リヴァイはそう思い、僅かに口元を緩める。
彼はその一時のために、これから精一杯の紅茶を淹れるのだ。そして彼女が作ったスコーンと共に、その一時を噛みしめる。

甘酸っぱいリンゴジャムと共に

(美味い紅茶に頬を緩める彼女を見ながら)
  • 2014/09/28
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