「そろそろバレンタインだね」と、は独り言のように呟いた。


二月に入ってすぐ。まだまだ寒い日が続き、マフラーと手袋が手放せない日々は変わらない。

全国を優勝という形で終えて、テニス部の同級生達は部活を最高の形で引退した。
彼等は引退してからも部活にちょこちょこ顔を出している。そのくせキッチリ学校を決めてしまって、しかも恐らく落ちる人は一人もいない。それでも手塚の「油断せずいこう」の声の下に、今頃も毎日こつこつ勉強しているのだろう。菊丸あたりサボってそうだけど。

「バレンタインがどうしたの?」

不二から声が返ってきて、私は彼の方へチラリと視線をやった。
受験に対する焦りの見えないいつも通りの不二に、余裕そうだな、と若干の妬みが出る。まあ、だからこそこうやって勉強を教えてもらえているのだけれど。

「今年はいくつくらい貰う予定?」
「別に、予定とかはないよ」
「でも貰えるよね、確実に。予想はとかないの?」
「怒るよ、

ムッとした不二に「ごめんごめん」と軽く謝って、手元の問題集を解く。受験間際だろうがなんだろうが、彼等はちゃんと女子生徒からチョコレートを貰うだろう。そのうちのいくつが本命なのだろうか? 「ファンです」というのと「好きです」というのは、似ているようで全然違う意味になる。当然のことだけど。

は?」
「? 義理チョコの予定?」
「じゃなくて」

煮え切らない答えを返してきた不二を真正面から見る。彼はそれに気づいて口元に薄い笑みを乗せると、普段閉じられている目を開けて私をジッと見た。あ、と思ってさり気なく目を逸らす。

――心臓に、悪い。

あの綺麗な顔に収まる美しい目と視線が合うのは、とても心臓に悪い。

「今年で最後だよね」
「卒業、するんだから当然でしょ」
「うん。……最後だけど、はくれないの? 僕に」
「何? 催促するの?」
が相手じゃ仕方がないよ」

その言葉の意味がわからず、何が仕方がないんだ、と心の中で思いながら「食べきれないくらいいっぱい貰うのに、増やしてどうするの」と返して問題の解き方を聞くと、不二は困ったように笑って丁寧に教えてくれた。


閉館時間の五時まで図書館で勉強して、不二の「送るよ」を辞退した私は、近所の手芸屋に寄ってから帰宅した。
バレンタインにチョコレートをあげるというのは製菓業界の売り上げ戦略と見て間違いない。それでも世間一般は、一月に入ってから既にバレンタインの準備を始めていて、テニス部レギュラーの面々は一人も漏れず〝告白〟の意味を持った甘い塊を受け取るのだろう。その子達の誰かと恋仲にまで発展する奴もいるかもしれない。その中には、私の思い人もきちんと可能性として含まれていた。彼が軽い人間であるとは思わないが、思いを寄せている女の子がいて、その子からそれを貰ったら? と思うと気が気ではないのも確かな話だ。だからと言って皆と同じようにチョコレートやクッキーを作って、その他大勢の中の一つになってしまうのは、少し寂しい気がして。

たとえ、元々その他大勢の一人だったとしても。

『不二は、高校いってもテニスするよね』

そう送ったメールに『勿論』と返ってきたことにほっと安心して、私は押し入れから編み棒を取り出した。


「相変わらず凄いね」
「? 不二のことー?」

三年六組の前の廊下は、不二にチョコレートを渡すために集まった女子の集団でいっぱいだった。席が前後の菊丸も先ほど一段落して帰ってきたばかりだ。テニス部は桁違いにモテる。そんなのはもう随分前からわかっていたことで、毎年毎年の光景に私もいい加減慣れていた。

「凄いとか言いながら、あんま驚いてないように見えるよ?」
「そら、何年も同じクラスじゃあね」
「えーっと……あ、そっか。中一からずっとだっけ」
「うん、そう」

菊丸と一緒になって廊下の方を見る。普段から明るい彼も、正直少しは疲れたようだった。そら、あれだけの女の子の相手を一斉にするんだから当然かもしれないが。

は渡さないの?」

菊丸からの発言にハッと彼を見る。ニッといつもの明るい笑顔を浮かべた菊丸が、私の方を見て「持ってきてるんでしょ?」と言った。

「何で知って、」
「へっへーん! 秘密ー!」

「大石んとこ行ってくる!」と言って、女子に囲まれて困っているであろう相棒の下へ走っていく彼は本当に台風のようだ。菊丸の爆弾発言に顔が赤くなるのを感じて慌てて両手で顔を隠した。ふぅーっと深い息を吐いて落ち着ける努力をする。嗚呼、窓際の席でよかった。

「妙なところで鋭いんだからなあー……」

アイツはアイツでやっぱり凄い。


「不二ー。から貰えた?」
「ううん、貰えてないよ」

そう言って僕は苦笑した。
バレンタインの今日も練習している後輩達を見に来ていた。今日だからこそ少々浮き足立った感じも見られたけれど、普段注意する側の手塚がまだ女子に捕まっているため誰も何も言わない。今日くらいは、といった感じだ。

思い人からついに三年間一度も貰えなかったチョコレートという思いの塊を、僕は未だに惜しんでいるのだろうか? あの時もっとちゃんと頼んでおけば、きっとは作って持ってきてくれただろう。そうするべきだったのだろうか、と自分に問いかけて、それは違うと一刀両断した。彼女が、彼女の意思で持ってきてくれるその“中身”に意味がある。あの甘いものはその表面でしかない。
ふ、と教室の方へ目をやった。

「……あれ、」
「ん? ああ、だ」

僕の視線の先を見て、英二がそう言った。見間違いじゃなく、彼女がそこにまだいたのだと気づき、ドクンと心臓が鳴る。

「ちょっと行ってくる!」

駆け出した足が軽い。その反面、心臓だけが妙な緊張感を持っていた。


(不二が気づいたら渡そう)

教室に残ることを決めたのは、今日も彼がテニス部に顔を出すと知ってからだ。菊丸に言われてちゃんと渡そうと決心したはいいものの、彼の人気の前に尻込みした。二人きりで渡すことなんて不可能に近かった休み時間。放課後だってさっきまでは女の子に捕まっていたに違いない。最初に見たときは居なかった不二が途中でテニスコートのところに現れたために確信し、また臆病風に吹かれた。

「……三年間渡せなかったかー……」

もっとも、彼をそういう対象として見たのは二年になってからだったが。
最初から望みのなかった恋だと思うことにしていた。あんなに人気者の彼が私をそういう風に見てくれるだろうか? という回答に対して、大して女の子らしくも可愛くもない私は「NO!」と即答する。
例えばそこの扉が開かれて、彼がそこから現れたとしたら別かもしれないが。

「……?」

現れたのだが。
妙に疲れた様子の不二が。

彼が下からここまで上がってくるだけでこんなに疲れるか? それこそNOだ。驚いて、肘を突いて顎を乗せていた手から顔が上がった。どうしてそんなに疲れているのか聞こうとして立ち上がると、ガタンと大きな音がなってビクッと驚く、

(余裕、ない)

いつもみたいに馬鹿な言葉をかける余裕が。お互いをからかいあうような余裕が。あの日、「今年はいくつくらい貰う予定?」と笑って見せた余裕が。
ああ、情けないな。そう思って椅子に座り込み、はあ、っとため息をついた。

私の名を呼ぶ中性的な声が酷く耳に馴染んで、私がこいつに恋をするのは運命だったのだとか、そんな風に思考が発展して、あ、今日の私はおかしい、と自分が自分をそう判断した。

「何してたの?」
「……待ってたの」
「……」
「不二を」

俯いたままで居ると、不二が隣までくるのがわかった。視線だけをそっちへ向けると、いつもよりも数段穏やかで綺麗な笑みがあって、柄にもなくドキリと脈打つ。

「嬉しいよ」

顔を隠していた私の手を片方掬い取っていって、不二がそれを柔らかく握る。

(期待してもいい? 駄目だって言ってもきかないよ?)

そんな心の中の問いに「うん」と答えるかのように、彼がまた一層笑みを深める。
あ、と思った。今なら、と。

「渡したいものがあって」
「え?」
「これ」

片手で鞄の中をあさり、水色の箱を取り出して不二に渡した。それを受け取った彼はその軽さに不思議そうにしながら私の方を見ている。

「開けていい?」
「どうぞ」

小学生中学年のときにハマっていた編み物を久々にやってみた。昔みたいに上手くはいかないだろうと思ったら、案外指が覚えているもんで。下手にできたら渡さないとある程度の予防線を張って臨んだそれが上手くいってしまって、とりあえず持ってきて、渡せなかったら渡せなかったでいいと思っていたそれを今、不二に渡してしまっている。

「これ……」
「つ、かってもらえますか」

つっかえてしまった声が自分の緊張を表しているようで恥ずかしかった。今日の私は下ばかり見ていると思いながら、また俯きがちになってしまう。

「……もしかして、この間勉強した日から作り出した?」
「え」
「ほら、〝高校いっても〟って」
「あ……うん」
「嬉しいよ」

今までで一番綺麗な笑顔だ。
新しい表情を見つけて胸が高鳴る。もう顔が赤くなったりはしないけど、彼が今送ったばかりのリストバンドをはめるのを見て口元が緩んだ。


手をつないで下校して、お互い好きだと言葉にすることはない。だけど確かに今、私が作ったそれを腕に着けている彼の手と私の手が繋がっていて、幸せを感じているのだから、信じたって罰は当たらないだろうと。

二人してバカップルみたいに笑い合って、全身全霊で幸せを叫ぶ。

どうやら君には依存性があるらしい

(私が感じている〝一生離れられそうにない〟を、彼も感じてくれていたら心底嬉しいなんて思いながら)
  • 2012/01/29
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