歳を重ねるたび、幼馴染との距離はだんだん開いていった。

しかし、だ。相手は異性であるし、私は淡白な性格であるし、彼だって自分から話しかけてこないような無関係な同級生に構っていられるほど暇でもなければ人情家でもない。向かいに住んではいるものの、私は帰宅部で彼はテニス部だから帰りの時間が被ることもなく、また朝も、私は学校にチャイム五分前につけるくらいまで寝ているが、彼は朝練があるわけで。

つまり、会うことはほとんどない。

クラスも同じではないから靴箱でばったりなんてこともなく、朝の挨拶すらろくにできないが、私はそれを気にしたことはなかった。多分、相手も同じだと思っていた。

ところで話は変わるが、二〇一二年のの三月五日は月曜日だ。


「……なんでいんの」
「開口一番がそれ?」

目の前にあんたの笑顔がなければとても清々しい朝だったさ、と内心毒づきながら、はあ、とため息をついてその人物を部屋から追い出した。なんだあの苦笑は。まるで私が悪いみたいじゃないか。
無理やり起こされた頭はまだだるい。もう五分でも寝ていられたらそれもなかったかもしれないのに、と何を思ったのか朝っぱらから幼馴染の部屋へ上がりこんで、休日だというのに七時きっかり起こしてくれた彼に対する不満をぶつぶつ言う。

ここ数日ご無沙汰だった間近で見る幸村精市は、やはり顔だけは整っていた。

確かに距離は開いていったわけだが、会えば挨拶もするし暇ならば話もする。私からいくことはまずないが、彼から話しかけてくるなら私はそれを拒まなかったし、彼も自分の都合でこちらにくるのだからその関係はそれでいいと思っていた。
時々教科書を忘れて、しかも真田からその教科書を借りることができなかったときに、うちのクラスを訪れて女子を騒がすのは少し迷惑だったが、耳を塞げばいいだけだったのでまだ文句を言ったことはない。

とりあえずこれ以上待たせると煩いと、Tシャツとジーンズにパーカーを羽織って大きな欠伸をしながら部屋を出た。

「遅かったね」
「……待つなら一階にいればよかったのに」
「別に、俺がどこでを待とうが勝手だろ?」
「強制じゃなくて、私の希望」
「だったらそんな希望は却下だ」

ニッコリ。綺麗な笑顔だね。私女やめたくなっちゃったよ。思った言葉は外へ出さず、遅れて浮かび上がってきた「酷ぇ」をそのまま口にした。
階段の軋む音は、昔小さい頃に二人で下りたときよりも大きくなっている。それが少し、起きたばかりの脳には耳障りに感じられた。

寝起きでボサボサの髪も、幼馴染相手だと急いで直そうという気は起きない。しかし、最低限のマナーは守らなくてはならないだろう。また出そうになったため息を飲み込んで洗面台に向かい、髪にブラシを通した。後ろをついてきていた幸村はいつの間にかいなくなっていたが、私がリビングへ入ったときには母にすすめられて食卓についていた。

「おはよう。今日は休みなのに早いわねー」
「普通寝てる一人娘の部屋に男入れる?」
「やっだもー。精市君があんたごときに手を出すわけがないでしょう」
「何それ酷い」

うちの母は幸村精市の自称ファン一号だ。「昔からかっこよくなると思ってたのよねー」と、年甲斐もなくハートを飛ばしながら語るその話は中学の間でもう百年分は聞いた。耳たこだ。正直もう聞きたくない。
しかもどのルートからネタを仕入れているのか、中学に入ってからの学校での人気や噂、周囲の評価なんかも語りだすから厄介だ。「本当にやめてよ、恥ずかしいから」とそうたしなめたことがあるが、思わぬ反撃を食らったのでもう真っ向から叱ったりはしない。
トーストにバターとイチゴジャムを塗ってかじる。今にも始まりそうな母の精市君信仰の講義をどう回避しようか考えているうちに、母が口を開いてしまった。あーあ、朝っぱらからよくやるわこの人は。

「〝神の子〟とまで言われた精市君が、こんな女子力の欠片もない娘になんか見向きするはずないでしょう! もう、せっかく元がいいんだから女の子らしくすればいいのに。ほら、左側まだはねてるわよ!」
「いいよ別に……幸村しかいないし」
「精市君がいるんだからちゃんとしなさいって言ってるのよ」

キッとこっちを睨んでくる母の視線を手で払って、仕方が無く注意された髪を申し訳程度に撫で付ける。朝からなんでここまで言われなければならないのだ、と本気で思うが、幸村がうちにくると大抵こうだ。嫌味の一つくらいは言いたくなっても仕方がないと思う。

「……そういえばさあ、神様っていないらしいよ」
っ!!!」

「怒るわよ!」と振り返り勢いのまま私に突っかかってくる母を見て、私はテーブルの上のマグカップとトーストの乗った皿を持つ。その瞬間、母が自分の勢いのせいでテーブルに激突した。空っぽになった父のカップがコトンと倒れるのを見ながら、私はカフェオレを一口飲む。

「うう……のせいよ……」
「自業自得」
「というかの手際のよさに驚きだよね」
「しょっちゅうなんだよ」

幸村の話になるたびに母はこうだ。私が女の子らしくならなかったのはミーハーな母を見て育ったせいだ、と父との意見も一致している。いつだったか「よくもまあ、あれと結婚したね」と父に言うと、「好きだったんだから仕方がない」の後に、「それに、俺が何をしていても嫉妬がこないから楽だぞ」と余計な言葉がついた。あの温厚な父にそこまで言わせる母は、本物の女子学生よりも女子力が高い。
おかげで私は面倒ごとを回避するのがお手のものになってしまった。
自称幸村精市のファンが私に「近寄らないでよ!」と突っかかってきたとしても、家に自称幸村のファン一号がいるのだからそれに勝るものはいない。話してわからない相手なら、適当に挑発して私が今のように回避すれば勝手に自滅してくれるのだから、これほど簡単なことはないと鼻で笑える自信があった。
しかしまあ、こういうことを考えると必ずここに行きつくのだ。

とにかく、幸村精市という人物が絡んで私が幸せだったことなんて一つもないという事実だけは生きてこの方一度も変わったことはない。

「で、何で幸村がうちにいるの」
、明日何日で何の日か知ってる?」

さっきまでの恨みの篭った目とは一変し、嬉々とした視線がこちらを向いた。何だこの人。現役女子学生バリに面倒くさいな、と思いつつ、シカトすればもっと面倒くさいことになるので、わざわざカレンダーを見て確認までする。

「……五日……なんだ、誕生日か」
「そう! 精市君の誕生日! そしてなんと、今年はうちの家でパーティーをするのです!」
「あー……私午後から出かける用事が」
「見え見えの嘘ついてまで出たくないっての!? あんたそう言って去年もこなかったでしょ!!」

幼い頃からの年中行事だ。元々親友同士だった女子二人が同じ年に子供を生んだからと、お互いの子供の誕生日は毎年両家族そろって祝う。私が去年それに参加しなかったのは、正直うんざりしていたからだ。幸村の誕生日だけではなく、私自身の誕生日にも出なかったのだから気づいてくれていると思っていた。
幼馴染だからなんだっていうのだろうと。もうクラスメイト程度の付き合いしかないというのに、母のミーハー心に振り回されてたまるかと。自分でも随分幼稚な反抗だと思ったけれど。去年の幸村の誕生日と私の誕生日は友達の家に泊まっていた。昼頃に帰って母から食らったビンタは今も結構根に持っている。

「うっさいな……幸村だって彼女とかいるんだろ。いい加減家族間の行事よりも恋人の方取らせてやったらどう」
「俺は大丈夫だよ。夜までには帰ってくるから」

カマかけたら当たっちゃったよ、と思ったけれど、何も思わない。私の幸村への片想いはとうに終わっている。小学校中学年の頃に自然消滅した感情は、今更戻ってはこないだろう。何も思わない私とは対極的なのが母だ。幸村に恋人がいようがいまいがあんたは付き合えないだろう、と思うが本当に今更なので何も言わない。

ああ、もう何で朝からこんな。

呆れも通り越して口元に乾いた笑みが乗った。トーストのなくなった皿を食洗機に放り込み、母と幸村を一度も見ずにリビングの出口へと向かう。この様子じゃあ、私は本当に〝午後から出かける用事〟を作らなくてはならなそうだ。今日はゆっくり寝るつもりだったのに。

後ろからかかる幸村の声に、私は振り返らず、足も止めず、「何」と素っ気無い声を返す。

「そういうことだから、出かけよう」

手首に触れた人間の体温にギョッとしている間に、幸村は私の手を引いて玄関まで歩みを進めてしまった。靴を履き、「早く」と促されるままに靴を履いてしまったが最後。開かれた扉に吸い込まれるように外へ出てしまった私は、考えることすら許されないらしい午後の予定に内心頭を抱えた。


「どういうこと」
「? 何が?」
「彼女は」
「だから、だろ?」
「私は幸村の彼女になった覚えはない」

「離せ痛い」。可愛げのない言葉を吐いて手を離させる。痛いのは本当だ。手をつないで歩くなんて慣れないし、こんな無理に引っ張って歩かれたことなんてないのだからそりゃあ痛い。何だこれ。友人に無理矢理読まされていた少女漫画の主人公達はこんな痛い目を見ていたのか。これからは甘ったるいと眉を顰めて閉じるのはやめよう。

「俺、じゃないならいらないよ」
「……」
「他に好きな人でもいるの?」

いないさ。だけど私は幸村の恋人になんかなるつもりはないのだ。
女子の嫉妬という名の報復がどれほどのものかを彼は知らない。私があの母を持たず今までのイベントに遭遇していたとしたら、ビンタで顔をパンパンに腫らすのはまだ序の口だっただろうし、骨の一本でも折っていたかもしれない程度のレベルだぞ。

「別に、幸村には関係ない」

周りの視線が死ぬほど痛かった。もろに部屋着の私と元が良すぎる幸村が並んでいたとしても、お世辞にも絵になるとは言えないだろう。私もそう思う。だから好きでいることを止めたのだ。
妙な苛立ちから、私は眉間に深いしわを刻んで幸村を睨む。しかし幸村の方も、そんな私に負けず劣らず不満そうな顔で私を見ていた。

「それ嫌」

知らねーよと言ってやりたいのを抑える。面倒くさくなっても、ここでその理由を聞かないままにすれば私は一層面倒くさいことに巻き込まれるはめになるのだ。いつものこと。母と幸村の扱いは、今まで生きていて知った〝平穏に暮らすために必要な条件〟の上位項目にランクインする重要事項なのだから。

「……どれ」
「その、〝幸村〟っていうの」
「じゃあ何て呼べばいいの」
「〝精市〟でいいじゃないか」

それは駄目だ。
すぐさま出た否定に、幸村は一瞬驚いてから苛立ったような顔になった。私は彼よりも遥かに苛立っているはずだというのに、いつもの癖で何でもかんでも譲ってしまいそうになる。一歩下がって話しを聞いてしまいそうになる。これじゃ駄目なんだ、と思うのに結局はいつもそうなるのだから、私から言わせればこれはもう病気だ。

「二人のときだけでもいいよ」
「もし間違って学校で呼んだりしたらどうなると思ってるの。女子の呼び出しが今以上に頻繁になったらどうしてくれんだよ」
「呼び出し……?」

はっとしたときにはもう遅い。幸村にはそんなこと、一つも教えていないのだ。そして彼はそれを知らないはず。同じクラスの仁王が誤魔化し誤魔化ししてくれているのだから、それはきっと完璧だったのだろう。

『お前さんはただでさえ元が不憫じゃからな』

そう言って、珍しく私の不幸を理解してくれる友人だ。誰にでもからかうような態度だからか、私と彼の関係がどこからどうみても悪友だからか、あちら方面のファンと私は結構仲もいい。
しかし、幸村の根拠のない「なら一緒にいても変に思われないよね」というその見解は大いにはずれだ。しかしそれを彼自身が知らないのは、私達が幸村にそれを隠していたから。

そう考えて、心臓がドクンと波打った。

やばい。そう思ったときにはやはりもう遅い。結局私は、諦めたとか止めたとか言っておいて、

「何それ。俺知らないんだけど」
「……」
、」
「幸村には関係ない」

もう少しで近所の公園だ。まだ朝早すぎて誰もきていない。静かなその場が驚くほどに居心地が悪いことに気づいた。仕方がない。どこかで適当に説得して昼まで家で寝たかったけど、この公園には入らずにいよう。そう思った私の思考なんて知らない幸村は、また突然私の手を引っ張って公園に入っていった。
人目につかないところを選んでくれたのは正解だが、気まずさはやはり付きまとう。中々視線を合わせようとしない私に、幸村が再度強い声で名前を呼んだ。

「幸村、離して」
「精市、だよ」
「強情」
「そっちこそ」

諦めたとか止めたとか言っておいて、結局私は、期待するのが怖いくらいに、

「名前なんか……私はお前が、それこそ神様くらい離れた人間みたいで、」

幸村精市が好きだ。

「神様、いないんだろ?」

名前で呼ぶことなんかにそんなふうにこだわったりするから、私が期待しそうになる。同じ気持ちを返してくれるだろうか? と思う。そんなことがあるはずはないのに、そう思ってしまう。
だから、怖いって言ってるんだよ、幸村。ただでさえ別次元の人みたいなのに、そんなのに恋をするなんて。

「直接の言葉がほしい? が望むなら、言ってあげるよ」

ビクリ、と体が震えた。怖いのか、歓喜なのか。
でもそれ以上は、と拒む私が心の中には一人いて。

「まだ信じられないの? 俺、が好きなんだけど」

「嬉しくない?」なんて、そんな確信を持った顔で言われて、否定できるはずなんてないでしょうに。
仕方がなく苦笑して、「私もみたいだ」と言うと、幸村はその曖昧な言葉に少し眉を顰めた。

「夜さ」
「うん?」
「母さん達に報告して驚かせてやろう」

その発言に私の肝がいったんサッと冷えた。しかし、そんなのはまだまだで。

「で?」
「……?」
「お前一人で隠せるわけないよね」
「え」
「呼び出しの件」
「あ」
「共犯者、誰?」

そういえば神はいないらしい

(そう言った精市の笑顔に絶対零度を見た)
  • 2010/08/27
  • Teni-tan 4 Seasons Plus+
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