「柳生助けて」

疲れきった私を見て、柳生が眼鏡の奥の目を驚きの色に染めた。


先輩。どうしたんですか」
「柳生が考えている通りだと思う」

はあ、とため息をつく私の前で、柳生がやっぱり、と眉を顰めた。

テニス部二年の柳生は、私の幼馴染のパートナーだ。
パートナーから私に飛び火した問題の愚痴を聞いてくれる紳士でもあり、私の心のオアシスでもあった。

「今日はどうしたんですか」
「体育館裏」
「大丈夫でしたか?」
「何とか、わかってもらえたよ」

『仁王君と付き合ってるって本当なんですか!?』

責めるような金切り声で私に詰め寄った三人の後輩達の言葉が、私の中にまだわだかまりとして残っている。

『仁王と付き合う? 冗談じゃない。何で私が』
『だって仁王君、好きな人がいるって言ったんです……!』

そんなの神埼先輩しか思い当たらないじゃないですか。そんな言葉を吐きながら、真ん中にいた女子が泣き出した。やめてくれ、ここで泣くな。これでは私が泣かしたみたいじゃないか。呼び出されて泣きたいのは私だと言うのに。
眉間に皺を刻み、体育倉庫の扉にもたれながら思案する。その間、両端にいた二人は泣いている彼女の背をさすりながら、想像と違っただろう私の反応にどう対処するべきか考えていたに違いない。物分りのいい子達だったようだから、結局は私の言葉も最後まで聞いてくれたのだけれど、毎度毎度そうではないのだ。
一週間前、同学年の生徒に引っ叩かれた感覚がまだ消えない。痛みのなくなったはずの頬は、それを思い出すたびに鈍く熱を持つようだった。ビンタだけではない。引っかかれかけたこともあるし、いじめに発展していないのが奇跡なくらいだ。

「三人には、なんと?」
「〝あんなペテン野郎、私にはいらない〟」
「いつも通り、気持ちいいくらいはっきり言いますね」
「事実だもの」

話の途中、柳生が買ってくれたパックのオレンジジュースにストローを刺し、一口飲んだ。いる? と柳生にストローを向けると、少々驚いた顔をしてから少し赤面して、遠慮しますとはにかむ。ああ、柳生はなんて可愛いんだ。あいつとは大違いじゃないか。

先輩は」
「ん?」
「今こうやって話している〝柳生〟が〝仁王君〟であるとは思わないんですか?」
「私が柳生と仁王を間違えると思ってるの?」
「いえ、大概の人は変装に気付かないので」

そうだね。皆何故か気付かないよね。そう言ってもう一度、100%オレンジジュースを飲んだ。
そりゃ、周りは気付かないさ。私だって外見だけなら気付かないかもしれないほど、彼等の変装は凄いと思う。だけど雰囲気や、動作の小さな違いでわかってしまう。誰もが気付かないような微々たるものでも、幼馴染くらいの付き合いの長さがあれば嫌でもわかってしまう。

たとえ相手が大嫌いな仁王雅治であろうと。

「先輩」
「どうしたの」
「できることがあったら言ってくださいね」

アイツもこれくらい殊勝ならよかったのにな。



「何」
「また呼び出されたんか」
「だから?」
「今度そういうことがあったら俺に言えって言うたじゃろ」

はため息をついて、読んでいる本から視線をずらさないままに「はいはい次はそうするよ」と嘘丸出しの回答をした。幼馴染でありながら、彼女は俺の言動のほとんどを嘘や冗談だと片付けるところがある。それはまあ、俺の普段の対応も悪いのだろうが、少々納得がいかなかった。
部活の休憩中、柳生が「先輩は何者なんですか」と聞いてきた。何でそんな質問をしたのかと思えば、俺達の変装を当たり前のように見抜けると言ったからなのだそうだ。だったら俺の言葉の真偽くらい、簡単に見抜いてほしいと思う。

彼女の母親と俺は仲がいい。「いますか」と問えばあがってって! と当然のように彼女の部屋へ連れて行った。入った瞬間のの顔が未だに頭にこびりついて離れない。それはもう嫌そうな顔だった。

、俺のことそんなに嫌いなんか」
「そうだね。嫌いと言えば嫌いかもね」

ちゃんと答えんしゃい。その言葉に、はやっと俺を見た。読書と授業の時だけかけている赤い縁の眼鏡の向うから、少し鋭い印象のある大きい瞳がのぞいている。だが彼女は、俺の方を見ても視線を合わせることはしない。眉間の皺は柳生と会話しているときなら滅多に見られないもので、俺と話しているときには通常装備だ。不公平だ、と思う。だけど仕方がないのかもしれないとも。
柳生と俺では、に向ける感情がそもそも違うのだ。
は、俺以外の人間に対しては真摯に応じる。茶化すことも誤魔化すこともほとんどない。だが、俺にだけは。

「質問の意図がよくわからない」

はあ、とため息をつく。
物分りの悪い子供を前にするような、そんな大人の余裕にも似た空気が彼女の周りに漂っているようだ。一つしか年齢は変わらないのに、学年一つの差はとても大きいものに感じられる。

、俺は」
「好きだ、って言うなら聞き飽きた」
「……冗談だと、本当に思っとるんか」
「それ以外に何があるって?」
「本気」
「ご冗談を」

「おモテになる仁王氏のお眼鏡に適うような器量は持ち合わせておりませんよ」。ひらひらと手を振って、近くにあった眼鏡ケースにかけていた眼鏡を折りたたんで入れた。が言う〝器量〟は顔立ちだけのことではないのだろう。暗に「お前みたいなのを抱え込めるだけの器の大きさは持っていない」と言われているようだ。
だが、撃沈ではない。なら、絡んできた女子に言うようにキッパリと拒絶の言葉を出せるはずだ。それをやんわりと、さも面倒くさそうにしながら俺との接触を避けている。それは、俺に言わせれば〝らしくない〟行動だった。

、俺のこと好きじゃろ」
「いつの間にナルシストに転向したの」
「茶化すんじゃなか」

の頬を両手で挟み、無理矢理視線を合わせる。一層嫌な顔をされるが、もう慣れっこだ。今更堪えたりはしない。

「何するの」
「本当のこと言いんしゃい」
「……前から言おうと思ってたんだけどね」
「……」
「アンタいくつよ」
「は?」
「年齢」
「何言っとるんじゃ。の一つ下じゃろ」
「年下なら年下らしくしろって言ってるの」

バッと俺の手を払ったが、今度は俺の頬を両手で挟む。

「可愛くない」
「こんなイケメン捕まえて酷い言いようじゃな」
「柳生なら顔赤くしたりして恥らうもの」

ここで、柳生か。
柳生がに気に入られていることは知っていた。だがこのタイミングで。好きな女の顔がこんな至近距離にあるタイミングで、そいつの名前を出すのかお前さんは。

、話を逸らしなさんな」
「何が?」
「お前さんは、俺んことが好きじゃろ?」

気付いていないなんて言わせない。そういう色を込めて言葉を放つ。は少しだけ考えるような表情になって、それから俺を真っ直ぐに見た。

「仁王」
「? っ!!」

細かった目が一気に開く。まん丸になっているだろう俺の目とは反対に、は静かに瞳を閉じていて。

「これでいいでしょ」

キスだ。

気付いたときには既に唇は離れていた。
顔が熱い。何だ今のは。何で急に。不意打ちというのはいかがなものかと。

「何だ、仁王も案外可愛いね」

何年ぶりかに俺に向かって微笑んだはそんなことを言って俺を撫でた。

知らないふりはもう許さない

(世界最大の嘘をついたね)
  • 2011/09/20
  • 誰でも最初は
  • 5
    読み込み中...

add comment