ハンプティ・ダンプティが 塀の上
ハンプティ・ダンプティが おっこちた
王様の馬も 王様の家来も
ハンプティを元に 戻せなかった

――――マザーグース


「……ハンプティ・ダンプティがおっこちた」

ポツリ、と言葉が漏れた。

「……似てるなあ」

私と。

恋をしている。エクソシストという役割上、そんな余裕があるとも思えないのに、私は恋をしている。
初恋ではない。今までにだって何人か好きな人はできたし、付き合ったことだってあることにはある。でもそれは黒の教団に来る前の話だ。まだ暢気に恋愛を楽しんでいられたとき。今思えば、あのときの恋愛はなんて気楽だったのだろう、という感じで、アレは本当に恋愛と言えたのか、とまで思う。
叶う見込みのない、しんどくて苦いこれが恋愛だと言うのなら、今まで体験してきたアレはチョコレートに砂糖を足したくらい甘いものだった。

女の私よりも綺麗な黒くて長い髪。嫌味かと思うくらい美形で、無口で、無愛想で、外見以外にいいところなんて見つかりやしないのに、私はいつ彼を好きになった? 好きになった切欠も、どこが好きなのかもわからない。今までの〝恋〟ってやつはこんなに解り辛くはなかったのに。優しくされたとか、趣味が同じだとか、そういう切欠はいくらでも転がっていたのに。今回はその欠片すら見つからない。これがいつの間にか好きになっていた、という恋愛小説でよく見るアレか、と理解したときには取り返しがつかなくなって「うわあ……」と思わず自分に同情した。

気づいたのは一週間前だ。それから神田とは任務のすれ違いで会っていない。

可哀相に。せめてもう少し見込みのある人なら舞い上がったり沈んだりできただろうに、アイツが相手ではそれもできない。ずっと沈みっぱなしだ。
はあ、とため息をついて立ち上がる。考え込んでいるうちにどんどん夜明けに近づいていることを忘れていた。エクソシストとして戦わなければならない立場にある以上、色恋沙汰なんぞに現を抜かしている暇はないはずなのだ。

「寝よう」

寝れば忘れるかもしれない。もしかしたらこうやって考え込んでいること自体が悪い夢であるかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを考えて、私はベッドにもぐりこんだ。

そして朝目が覚めて、夢ではないことに絶望した。

「おはよう! ってどうしたの、眠そう」
「考え事してたらもう二時まわってて……」

ふああ、と遠慮なく欠伸をする私を、リナリーが心配そうに見上げた。大丈夫大丈夫、と私よりも少し背の低いリナリーの頭をなるべく優しく撫でる。
神田と同い年の私は、一つしか違わないが、リナリーを妹のように思っていた。明るくて、可愛くて、神田も男の子ならこういう子が好きなんだろうな、と思考がまたマイナスになりかけたところでラビがやってきてそれは遮られた。
ため息が出る。明るくいつも通りに振舞えない自分に腹が立つ。恋愛にかまけている場合ではないのに恋をして、いつもと違う自分の心臓の動きに戸惑っている自分が嫌になる。こんなとき、任務で神田と一緒になったらどうするんだ、と自分を叱り付けるもあまり変化はなくて、また深いため息をつきそうになった。

そして、こういうときに限ってあったりするのだ。

「今日の任務、神田と一緒ね」

なんてそんなことが。

「何で神田と一緒なんだ……」
「あ?」

本人を前にして言ってしまうほどには余裕のない私が、神田の斜め向かいの席に座った。神田は窓際に行くので、私は入り口の近くになる。普段なら正面だが、最近気づいたばかりのこの感情のおかげでそんなことはできない。はあ、とため息をついて、汽車に乗っている間は寝不足を何とかしようと壁に体を預けて眠りこけることにした。


は元々煩く話す方ではなかった。他人に合わせるのが苦にはならないのか相手によって口数は変わるが、おかげで付き合いやすい奴だと思われている。一度が一番楽な対応はどれなのかが少し気になって聞いてみたら、少し考えてから「別にどれもしんどくはないけど、私元々話す方じゃないし」と平然とした様子で返されて、ああ、だから俺と二人でも平気なんだな、と納得したのを覚えている。
と二人、という空間はとても楽だった。俺とは違う冷静さで、自分の空気を乱すことはないはいつも笑顔でいるようでいて案外感情の起伏が少ない。俺の口数が多くはないこともあり、も自然と口数は減った。それが元であるというのだから、その静かな時間はとても落ち着くと思うほどで。

「……珍しいな」

小さな声はを起こすようなものではなかったらしく安心した。はやる気がないように見えて結構任務に真剣だ。夜更かしも戦闘に影響が出ることを配慮してしないと聞いているし、汽車の中では基本的に任務の資料を読んでいることが多い。地図なんかがあるときは、任務についての打ち合わせをしたりもする。そもそも人前で眠るような、隙を見せるようなことはあまりしないタイプである。そう思えば、何か彼女をこうも疲れさせるだけの出来事があったのだろうと簡単に想像がついた。興味があるというほどのものではないが、意外に思えて仕方がない。


自分のペースを崩されるのが苦手で、いつの間にか人に合わせたペースを自分で作る癖ができていた。そうして合わせていれば自分は自分でペースを保っていられる。急に崩されて慌てることなんてない。だが恋愛ともなるとそれも別らしい。何でこんなタイミングで、と思った。千年伯爵との決着がついたわけじゃない。AKUMAだけではなくノアまで出現した今、そんな余裕を持てるほど自分が強いとは思えなかった。それは冷静な判断で、他のエクソシストだって同じこと。そう頭ではわかっているのに、恋愛とはなぜこうも厄介なのか。

想いが通じることはないとわかっていながら、なぜこんなにも動揺しなければならないのか。

せめて任務にだけは支障を出したくない。神田の足手まといには絶対になりたくない。別に好かれているわけではないのに、これ以上仲を壊すようなことは絶対に。幻滅だけはさせたくないのだ。彼は私と一緒にいることをしんどいとは一言も言わなかった。私との任務で勝手に単独行動に出ることがないということは、それなりに信頼をしてもらえているのだと思う。それを裏切ることなんて、できないし、したくない。そうなったら私は自害でも何でもやってしまうだろうと思った。


「何?」
「大丈夫か」
「え」

まさか神田からそんな言葉が出るなんて。でも神田の表情はいつもとあまり変わらない。任務に支障がでるようなら、一人でいってくると、そういうことなのだろうか。私もエクソシストになって長い。アレンの初任務に神田が付き添うような、力量がわからないが故の配慮ではなかった。私と神田が二人で任務に送り出されたということは、この任務には二人くらいは確実に必要だと、そういうことなのではないだろうか。

「大丈夫、やれる」
「ならいい」

いくぞ、と口数の多くない神田の声が合図する。心地いいな。できるだけ長く側にいて、その声の欠片をいくつも拾い上げて、宝箱の中へ大事に大事に、思い出にして残していたいくらい。

ああ、これが理由なんだ、と思った。

心地いい。合わせる必要もなく自然体でいられるこの人の隣はとても心地いい。それだけか? でもその〝それだけ〟は凄く、大きいような気がした。お互いに言葉数は少ないから、他の子のように彼をかまったりしないから、会話の数はとても少ないけど。


任務にと出かけてさほど経たないうちにAKUMAが現れ、イノセンスの場所を知らせてくれたお陰で任務は簡単に済んだ。住民に被害もなく、ほっと息をついたのはつい先ほどになる。AKUMAのあの巨体は目立つのだ。そして、エクソシストと見ればすぐに襲ってくる。イノセンスを奪われるのは厄介だが、正直私は目印としては役に立つと思っていた。こんなこと、伯爵に言ったらどう思うのか。

近場の飲食店に入って適当なメニューを注文する。流石に蕎麦はなくて、神田に残念だったね、と声をかけてから私は外を眺めた。

このままではいけないと思う。このまま放置していたら、確実に任務に支障をきたす、自慢にならない自信が私にはあった。私に元帥くらい力があったならそれを補えたのかもしれないが、生憎そんなことはないのだ。はあ、とため息が出そうになってそれを飲み込む。
神田に好意を持った理由は、心地いいから、というアレ以上の答えは見つからないだろう。それを居心地の悪いものにすることはしたくはない。伝えれば確実にそれは壊れてしまうだろう。だけど、任務のためには一度玉砕しておいたほうがいいかもしれないという思考もある。

(どうしよう。言うにしても、どのタイミングで……――)

そもそも、迷惑ではないだろうか、と考えるのだ。どうしたらいいのかわからない。こんな立場になって恋をするとは思わなかったし、思いたくもなかった。

「何かあったのか」
「え」
「おかしいだろ、お前。いつからかは知らねーけど」

まさか神田に指摘されるとは、という思いで彼の顔を見た。その視線はしっかり私の方へ向けられて、ぶれることはない。好きだと自覚してからは、全てが好きだと思うのだ。この、相手を真っ直ぐに見る目も何もかも。

「うん……ちょっとね」

苦笑して誤魔化すか今この場で言うかを悩むよりも先に料理がテーブルに運ばれてきて、私達はまた無言になった。


変だ変だと思っていて、それがついに口を割ったのは料理を待っているときだった。困惑しているような雰囲気を出す眼が俺からそらされて外の風景を見つめている。だがその眼に映された景色がどこまでの頭に入っているのかは疑問だ。
晩飯を食べて手近な宿を探し、さっさと寝床を確保する。早く済んだとコムイに連絡を入れると、急いで帰ってこなくて大丈夫だと告げられて、だったら少し余裕を持つかと出発は明日の朝にすることにした。いつもならこの連絡もが手際よく済ませてしまうのだが、今日は様子がおかしすぎるために俺が受け持った。その間もアイツは申し訳なさそうに後ろに立っていた。

「神田」
「何だ」
「さっきの話ね」

さきほどまでの揺らぎを消し去った、何かを決心したような眼がこちらを見ている。一人部屋を二つ取った宿の部屋は隣で、その扉の前に二人して突っ立っている図は少々異様な空気を持っているような気がした。〝さっきの話〟と言われて浮かぶのは、料理がきたために中断された〝何かあったのか〟という俺の問いについてだろう。それ以外に思い当たらず、黙っての言葉を待つ。

「好きです」

ごめんね、と微笑み、おやすみと言葉を残して部屋の中に消えていくを開ききった目で見送る。

いつもと違うアイツの様子を見ていられなくなって口を出したのはよかったのか間違いだったのか。今はそれを考えられるほどの余裕もない自分に驚くばかりだ。


「おっこちた」

壊れて、元には戻せない。


気まずい雰囲気の汽車の中で、私と神田は来たときと同じく対角線上に座っていた。彼も私の話を聞きたいとは思わないだろうし、私もそうであってほしいと願っている。気まずい雰囲気にしてごめんなさい、好きになってごめんなさい。いろんな意味をこめたあの言葉を神田がどう処理したのかなんて想像もつかなかった。ただ、彼の都合のいいように解釈されていればいいと思う。

声がかかるまでは、そんな風に考えられるくらい余裕が戻ってきていたのに。

「……な、んで話しかけてんの?」
「悪いかよ」
「悪いよ」
「チッ……」
「舌打ち!?」
「そもそも言い逃げしたそっちが悪いだろ」

グッと言葉に詰まる。私はアレで満足で、アレでいいと思ったけれど、正直心の片隅には〝ずるい〟と行動をののしる私もいたからだ。図星をつかれて黙るなんて子供か。それでも神田は話を一方的にするだけで満足なのか、こっちを向かないまま口を開いた。

「考えたんだが」
「……」
「俺も好きだ」
「…………」
「……何か言えよ」
「……それはない!!!」

真っ向から全否定された神田は、今まで見ていた外の風景から視線をずらす。不満そうな顔で「おい」と言って私を睨んだ。ほら、普通睨むか、今好きだと言った相手を。
だけど嬉しくてニヤけそうになる口元をかくしたくて、私は不貞腐れたように顔を背けた。

ハンプティ・ダンプティ

(戻せるのはあなただけ)
  • 2012/01/06
  • 貴方に逢いたくて
  • 2
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