じっと彼を見ていた。彼は私の視線には気付かないが、他の女の子達の声には気付く。私の好意には気付かないが、他の女の子達の好意には気付く。そういう状態をもう何年も、続けている。
甘いマスクに甘い声。長身で、足が長く、スポーツマンらしく引き締まった身体つき。一度微笑んで見せれば、その綺麗な笑みに女の子達は黄色い声を上げた。一方で私は、息をのみ込んだ。ゴクリ、と自分の喉が大きく鳴るのが聞こえた。
目を瞑れば彼の姿が網膜に浮かぶように思われるほど、私は彼を見つめて、見つめて、見つめて――見つめることしかしていないとは決して言わないけれど、それでもひたすらに見つめて。

この視線の先に居るのはいつだって、及川徹という、彼の姿だった。


『練習試合あるぞ』

岩泉ががそう言ったから、は早起きして身支度を整える。長い髪をいつもより丁寧に一つにまとめ、いつもより可愛いシュシュで彩って、肩へ流す。化粧はしないが、色のないリップグロスを塗る。それから爪の長さを確認してからエプロンを着けて台所に立った。用意しだしたのは岩泉と自分の分と、プラスアルファのお弁当。昨晩タイマーをセットしておいた炊飯器からご飯を取り出し、おにぎりを作る。一つ一つ、いつも自分の分を作るよりもやはり、丁寧に。夜の間に下準備しておいたおかずを完成させ、それぞれの弁当箱に詰めていった。トマトを入れ、蓋をして一息。

(これを渡すか、渡さないか……)

どうしようかな、と考えながら冷蔵庫の前へ向かい、レモンのハチミツ漬けが入ったタッパーを保冷バッグに入れた。エプロンを脱ぐ。スクールバッグにお弁当を詰めて、準備万端だ。もう一度鏡を見てからは「よし」と自分に声をかけた。

「行ってきまーす」

行ってらっしゃいの声に送り出され、は通学路を歩く。余裕をもって出てきたため、ゆっくり歩いても大丈夫だろう。その間に彼女はいつもよりも丁寧に息をして緊張をほぐした。にとって誰の文句も受けず及川を真っ直ぐにみられる機会というのは多くない。彼のファンの中に紛れて見ることでしか、彼に真っ直ぐ視線を送ることは難しい。そうでもしれば、気持ちがすぐ人にバレてしまうし、彼にも勘付かれてしまうだろう。そして、黄色い声の少女達と同じ、「ファンの一人」になってしまうのだろう。きっと本気になんて、とってくれない。

(息が止まりそうになるくらい、及川の事が好きな子って何人いるんだろう)

そう、は思う。にとって、大部分の少女達の声は「アイドルへの好き」と同じに見えるものだ。現実味を帯びていない。ただ、姿形の整ったものを愛でるのと同じ感覚で引かれているだけのように感じるのだ。そして、事実そうだった。あの中に本気で、彼に見てほしいと思っている少女は多くない。そしてそれを及川自身気付いていて、あの軽薄とも取れる対応なのだろうと彼女は思う。それならば不誠実な対応ではないだろう。大勢のファンに対するアイドルの対応と一緒だ。

(私は見てほしいけど、まだ、無理だから)

勇気もなければ勢いもない。たくさん努力をして、それを積み重ねていかなければ自分は及川の目に入りもしないんじゃないか――入りもしないだろう――はそういう気がしているのだ。できることなら彼とちゃんとした付き合いがしたい。短期間で終わってしまうようなものでなく、ちゃんと長く、互いを尊重していけるような、相互に好き合えているような。高望みかもしれないけど、と思いながら、そうでないなら受け入れて貰えても虚しいだけだとは思う。

校門を通り、体育館へ足を進める。すでに騒がしいその場所は、及川のファンと思われる少女達で溢れかえっていた。二階部分から見る彼女等に紛れるため、も上へ上がる。たくさんある頭をなんとかかわし、一階部分を見ると岩泉と目が合った。が他人にバレないよう小さく手を振ると、岩泉も小さく頷いて視線を外す。これが、昼休憩の時に体育館裏で弁当を渡す合図だ。
少しして及川が体育館へ足を踏み入れると、黄色い歓声が上がった。ヘラヘラと笑いながらピースをする及川に、岩泉がボールを投げつけるのを見ては小さく噴き出す。見慣れたそのやり取りが、彼女は好きなのだ。

岩泉に引きずられていく及川の様子に笑みを浮かべていると、一瞬、彼女は及川と目が合った気がした。


『お前、あいつのどこがいいんだ?』

真顔で聞かれたその問いに、は顔を顰めて言ったことがある。

『顔じゃないよ』

その時岩泉は目を丸くして、『誰もそんなこと言ってねーだろ』と言ったが、そういう意味も含まれていることをは敏感に感じていたし、岩泉もわかっていた。岩泉は彼女が顔で人を判断する人物であると思っていたわけではないが念のため、と思って聞いただけの話で、のその反応には大いに驚いていた。

『いろんなとこが、好きなの』

例えば笑顔だとか、岩泉に怒られて拗ねている時の顔だとか、試合中の集中モードに入った顔だとか、その時の圧倒的な存在感だとか、バレーが好きなこと、努力を怠らないところ、負けず嫌いなところ、作ったレモンのハチミツ漬けをすっぱそうに、けれど美味しそうに食べてくれるところだとか、上げだしたらきりがないな、とは思う。なんなら女の子の扱いが上手いところだって、器用な彼らしくていいとすら思うのだ。及川が決して顔だけの人間でないことを、彼女はよく知っている。

は何とか試合を見ることができる場所を確保し、誰にも奪われないように柵に掴まって体育館を見下ろした。ピカピカのオレンジの床の上を部員が歩くたび、キュッキュと音がするのが心地いい。

(頑張れ)

彼ならば心配はないと思いながら、それでも不安がなくなるわけじゃない。負けるのが悪いというわけではないし、練習試合なんて至らないところを見つけるためのものなのだから、負けも一つの学びだとも思っているのだけれど、及川の苦しそうな顔や悔しそうな顔が、彼女はどうも苦手なのだった。自分がまだ慰めることも力になることもできないからだろうと、は思っている。
試合中、及川を目で追いながら、時に及川の視線の先を追った。及川がボールをどんなふうに扱うのか、どんなふうにスパイカーへ繋げていくのかを、頭の中で必死に考える。日に日に自分にも彼のセッターとしての凄さが見えてきているのが、彼女は嬉しかった。


と及川の接点は薄い。彼女の幼馴染が彼の小学校からのバレー仲間であるという、それだけのつながりしかなかった。三年になった今はクラスメイトという位置を手に入れることができたが、それでも朝の挨拶くらいしかしない。雑談をするほどの仲では、残念ながらなかった。
言葉を交わしたことは少ないが、が及川を想っていた時間は長い。勝手に目が姿を追うのも、勝手に耳が声を拾うのも、自分の五感の好きにさせてきた彼女は、彼のことを中々よく知っていると、幼馴染である岩泉は思っている。そしてできることなら、と及川が上手くいけばいいのにと思っている。自分の幼馴染が及川とどうにかなるということだけを考えると条件反射で眉が寄ってしまう岩泉だが、が本気で純粋に、及川徹という人間に惹かれているということは嫌というほど見てきた彼にとって当然のことだった。

自分は運動が苦手なくせにバレーのルールを熱心に岩泉から教わり、及川のプレーをあいつに穴が開くんじゃないかってほどジッと見ているを知っているし、余裕が出てきた今となっては他の部員にまでしっかりと目が行くほどになっていることも知っている。及川に自分を見てもらうために小さなことからコツコツ努力をしていることも、知っていた。例えば何か試合がある時は、絶対弁当を三つ作る。渡せる渡せないは別として、だ。そして絶対にレモンのハチミツ漬けを持ってくる。岩泉を通して部員全体に振る舞われ、それが及川の口に入ることを素直に喜んでいるを、岩泉は十分よくやっていると思った。顔は十人並みなのだが、笑えば岩泉が知る誰よりも可愛い笑顔をしているのだし、もっと話しかけて知ってもらうこともしてみたらどうかと、言ってみたことがある。

『でも、中途半端に近づいて〝ファンの一人〟になるのは嫌なの』

『私は及川が好きなのに』。そう言って困ったように笑った一年前の。彼女は未だに地道な努力をして、地道に、コツコツと、自分なりに頑張っている。三年になって同じクラスになれたことに心底喜んで、初めは「おはよう」という挨拶から何とか及川に認識してもらおうとしていたくらいだ。そんなことしなくても俺の幼馴染なのだからのことは知っていたのだが、そういうことではないらしい。

岩泉は後輩達に「ちょっと裏行ってくるから」と一声かけて体育館を後にした。


「お疲れ様」
「おー。いつもありがとな」
「ううん」

「私料理好きだし」。そう言って笑うの手から弁当の包みを一つ受け取る。今日もやはり弁当包は三つあって、俺はそこからあえて視線を外した。の弁当は冷凍食品をあまり使っていなくて、手作りの味がするのだ。家同士の往来が多かった俺が、の家で昔から食べていたのと同じ、馴染みある味がする。

「今日はどうすんだ?」

今までが及川にこの弁当を届けられたことは一度もない。毎度毎度、「馴れ馴れしいんじゃないか」とか「不自然かも」だとかそういうことを言って渡せていないのを、仲介役である俺はよく知っていた。〝男をつかむなら、まず胃袋をつかめ〟というのだから、これを食わしてやったら及川だって何かしら思うだろうに――そう思うくらい、の作る物は美味い。けれどやはり、自分と及川の現状を見て「まだ早い」と思うらしかった。忍耐強く慎重ならしい。

「んー……やめてお」
「あ、岩ちゃん見っけ」

その声に、返事をしかかっていたがギョッとして自分の背後の声に振り返った。俺を探していたらしい及川が「あ、さん」とを呼ぶと、は「お、お疲れ様」と混乱を収めながら一言絞り出す。ここまで来るのに結構な時間がかかったことは、と俺しか知らない。

「何か用か?」
「いや、大した用じゃないんだけど――あれ? 岩ちゃんさんにお弁当作ってもらってんの?」
「あー……まあな」

幼馴染であることを知っている及川は特に不自然に思わなかったらしく、「へー」と微妙な反応をしてを見た。は不思議そうに――俺から見ればテンパって――及川の視線を見返している。それが態度に出ないように頑張っているところを見ると、尚更なんでを好く男があまりいないのか、疑問だ。

「及川、お前飯は?」
「あー、今日母ちゃん寝坊しちゃってさーこれからコンビニパンかな」

「それで岩ちゃんと一緒に行こうと思って呼びに来たんだけど」となんだか気持ちの悪いことを言って、及川が笑う。「あ? 一人で行けよ」と言いかけて、俺はふと思った。の方へ視線をやると、それに気付いたは「げっ」という顔をしたが、俺はなんだかじれったくなっての手元からもう一つ弁当包を取り上げる。

「これ食えば?」
「え?」
「は、一!」

「何やってんの!」というの視線に「別にいいだろ及川だって腹減ってんだから」と言葉を返すと、彼女はそれもそうかと思ったのか一瞬勢いが弱まった。

「毎回俺が足りないかもとか言って一個余分に作ってくんだよ」

我ながら上手く言えたんじゃないか。実際の所はこれは及川の分で、渡せなかったら冷蔵庫で保存されて平日のの弁当になるのだが、それは今はまだ黙っておく。ともかくこの弁当は及川のために作られたものなのだから、及川の元に行くのが一番いい。
「え、でもいいの?」と珍しく遠慮がちな及川に見られ、は少し俯きがちに「ど、どうぞ。どうせ多分余っちゃうから」などと言っている。耳まで赤いのが及川にバレてて、及川もを気になって、そのまま二人で上手くいってしまえばいい、なんて都合のいいことを考えるが、そんな上手い話ないよなーと、俺は先の長さにため息をついた。

結局は緊張して、努力もするし頑張るけど、いつもの何かを達成するときの〝最後の一押し〟が足りないのだ。

「わー、ありがとう、さん」
「いや、別に……あの、食べ終わったらお弁当箱一に渡してくれたらいいから。あと、レモンのハチミツ漬けこれ、皆で食べてね。じゃ」

そう早口に言っては速足に表へ戻っていく。多分頭を冷やすために、一人で落ち着いて食べられるところを探しているのだろう。及川は「せっかくだから一緒に食べようよー」などと俺に言いながら適当なところに座り込み、俺が近くに座って弁当箱を開けるのを待ってから包みを開いた。

「うわ、美味しそう」
「それ、全部の手作り」
「え! 凄くない!? 凄いね!」

目をキラキラさせ「いただきます!」と弁当に箸を付ける。美味そうに食べているのを見ると、たきつけた俺もどこかで緊張していたらしくホッと息が漏れた。口に合ったみたいだぞ、よかったな、と心の中でに言いながら、俺もいつも通りに食べ勧める。

「あのさあ岩ちゃん」

卵焼きを口に入れ、飲み込んだ及川が少し小さめの声で俺を呼ぶ。なんだよ、という気持ちを込めてそちらに視線をやると、少しだけ頬を赤くした及川が気まずそうに口をもごもごさせて、それから意を決したように言った。

「弁当箱、俺が直接返しに行っていいかな」

ご飯粒を吹くかと思った。

見つめる、交わる、それから、

(なんだよお前ら、放っといても大丈夫だったんじゃねーか)
  • 2014/07/07
  • アストロジア
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