店内にはコーヒーの香りが漂っている。お昼前のこの時間、お客さんは少ない。
カタカタ、カチカチとパソコンを操る特有の音が静かに鳴り響いている。

ちゃん、おかわりは?」
「あ、マスター。ありがとうございます」

そんな風なやり取りにも慣れるほど、通いなれた店だ。カフェというには重厚な店内は、まさに〝喫茶店〟だ。若者が入りやすい店ではないけれど、マスターは気が良く好奇心旺盛で優しい。
こうして長時間場所を占領しても、「次の動画も楽しみにしてるねー」と許してくれる。
毎度コーヒーだけだと申し訳なさすぎるので、最近は朝早くに来て朝食をここでとるようにしていた。お昼を過ぎた時は、おやつを食べる。ここのカスタードパイはほろ甘く美味しくて、脳に糖分をくれる。

新しく淹れてくれたコーヒーを飲んで、一息。

(あとちょっと……)

そう思ったところで、カランコロンと優しい音が鳴る。
ゆったりした足音に、あ、来たなと思う。そして、声を聴いて、正解に口角が上がる。

「マスター、クリームソーダ」
「いらっしゃい、孤爪くん。ちゃんいつもの席だよ」
「ありがと」

木製の床が心地いい足音を届けてくれる。近づいてくる彼に振り返ると、目を真ん丸にして、それからいつも通りに戻って、彼は私の向かいの席に腰かけた。

「外暑かったでしょ」
「うん。もうセミが凄いよね……元気すぎ」
「あはは。研磨くん汗かいてるよ。タオルいる?」
「大丈夫。さんも、仕事急がなくてもいいからね」
「いやいや、締め切りあるので。でも、もうちょっとで終わりそうだよ」
さん早いから助かるよ」
「ありがたいことに、お仕事いただけてるので!」

そう言って笑うと、研磨くんは少しだけ笑った。

今、私は研磨くんのYouTuberのお仕事を少し手伝っている。といっても、出演なんかではなくて完全な裏方。動画編集の部分を本当に少しだけだ。


私が社会人になって少しして、隙間の時間を使って副業でもするか、と思っていた頃、久しぶりに研磨くんからメッセージが届いた。

さん、今でもパソコン触ってる?』

研磨くんとは高校生の時、黒尾を通して知り合った仲だ。彼ほどではないけれど、私も趣味程度にはパソコンやゲームが好きだったので話が合った。

私が高校を卒業した頃から徐々に連絡を取り合わなくなったのは、単純に、会う機会が減ったことが大きい。元々二人でどこかに出かけるような関係性でもなく、〝黒尾を通した後輩〟の立ち位置だった研磨くんに、薄情ながら連絡を取る必要がなかったのだ。

そんな彼が大学生ながらYouTuberをやったりだとか、会社を立ち上げたりだとか、すごい人になっているのは風の噂で聞いていた。

『うん、触ってるよ。大した事はできないけど、仕事でも使うし』
『動画編集手伝ってくれる人探してるんだけど、さん、やらない?』
『いいけど……簡単な事しかできないよ? クラブ紹介の映像作ったくらいで……』
『最初は教えるし、それだけできれば十分。さんがよかったら』

うーん、と少し考えて、了承の返事をした。
どのみち仕事に慣れてきて、少し余裕ができたから副業を、と思っていたのだ。後輩の手伝いにシフトしたっていいだろう。

お金もツテも、今の研磨くんならきっといくらでも持っている。それでも身近な素人に声をかけたということは、彼は相変わらず、他人と長時間接するのは疲れるタイプなのかもしれない。
そんなふうに考えて、予定を合わせて一度顔を合わせることになった。

あの日も、セミが鳴く暑い日だった。

久しぶりに会う研磨くんは、プリン頭がほとんどカラメルになっていて、少しだけ大人っぽくなっていた。
駅前の喫茶店――それが今いるこのお店なのだけれど――に連れられて席に着くと、まず広げられたのは契約書。

ボランティア的な手伝いだと思っていたのに、凄く具体的に書いてある。一本当たりこれくらいの作業量で、これくらいの報酬で、とスラスラ説明する研磨くんに、慌てて待ったをかけた。
副業を考えて調べていたからわかる。提示された金額は、プロがいただく金額だ。

「後輩からお金なんて、もらえないよ」
「何言ってるの。そんな、ボランティアみたいなことさせないよ。さんだって働いてるのに」
「で、でも、私プロじゃないし……」
「……わかった。じゃあ、研修中の料金とか決めよう。で、納得がいくものだったら、本契約。どう?」

あのゆるゆるの研磨くんが、すごく真剣な顔をしている。その目は、いつだったかの試合で見るものと少し似ていた。
私はその押しに負け、後輩からありがたくお金をいただいて仕事をするようになったのだ。

研修は全部で六本。そのうち三本は研磨くんに教わりながら作成し、残りの三本を一人で編集する。それを見て大丈夫なら、本契約。
二人で相談し、そう決めた。

その日のうちに契約をして、研修中は彼のご自宅に通った。古いけれど趣きのある一軒家に彼は一人で住んでいて、最寄り駅まで行くと車で迎えに来てくれた。
全てに恐縮しながら、こんなに良くしてもらっているのだからせめて仕事には真剣に打ち込もうと励んだ結果、本契約を結んで今に至る。

あれから約一年。私と研磨くんはこうして顔を合わせている。


「できたー!」
「お疲れ様」

目の前でクリームソーダを飲みながら、研磨くんが声をかけてくれる。マスターは私の大きい声を聞いて、すかさずおかわりを淹れてくれているようだった。
そういえば、契約したあの日も研磨くんはクリームソーダを飲んでいたな、と鮮やかな緑が脳裏をよぎる。なんだか、夏の色だ。

「後でデータ送るから、確認お願いします」
「はい」

そんなかしこまったやり取りにふと笑う。おかわりを持ってきてくれたマスターにお礼を言って、まだ半分以上残っているカスタードパイを口に含む。

さんの編集、評判いいよ」
「え、ほんと?」
「ほんと。この間、編集頼みたいんだけどクリエイターは誰? って問い合わせあったくらい」
「え! 嘘! 嬉しい……でも時間的に、研磨くん以外の人のを作ってる余裕はないなあ」
「うん、わかってる。秘密って言っといたから」
「ありがとう」

研磨くんがYouTubeにアップしている動画のすべてを私が編集しているわけではない。ちゃんとしたプロの人に依頼しているものもあって、私は本業に支障が出ない程度に、アルバイトのごとく手伝わせてもらっているだけなのだ。
研磨くんは「他の人に紹介するくらいなら、俺のをもう少し頼んでるよ」と言いながらアイスクリームを崩している。

ノートパソコンを閉じてリュックにしまうと、研磨くんが「ねえ」となんだか改まった様子で私に声をかけた。

「どうしたの?」
「聞いてもいい?」
「え、何? 答えられることなら答えるけど……」

なんだろう。お給料カットの相談だろうか。けれど褒めてからわざわざそんな話はしないだろう、と考え直す。
研磨くんと私は趣味の話か仕事の話をしていることが多いので、なかなか改まってこんなふうな空気になることは少ない。

さんって高校の時、クロと付き合ってたよね」

予想外の質問に、やや出遅れる。

「……付き合ってないよ」

クリームソーダを見ていた研磨くんの目が、私を映した。伺うような、見抜くような、そんな目だ。
私はその目に冷静になって少し笑った。ちょっとびっくりしただけで、何を思うでもない。軽く話せる思い出になった、過去のことだ。

「ほんと。付き合ってなかったよ」
「……あんなに仲良かったのに?」
「んー……一回だけデートはしたかな」

確かに、私と黒尾は仲がよかった。ほとんど両想いだった。付き合っていると噂が流れたこともあったけれど、一度も肯定したことはない。その直前だったのだと思う。直前、だったのだ。

「クリスマスの、バレー部の練習終わりにちょっとだけね。街にクリスマスツリーを見に行ったことがあるの。ドキドキしながら手なんか繋いじゃって。高二だったかな。懐かしいなー」
「……? なんで付き合わなかったの?」

いぶかし気な研磨くんの視線に、私は苦笑する。そりゃあ、皆そう思っていた。あの頃は。悩んでいたのは渦中の人間だけだ。

「なんていうか……うーん。私達が高二の時、バレー部忙しかったよね。三年生が引退した後の新体制で」

黒尾がよく言っていた。三年制が引退したら、と。もう少しの辛抱なんだ、と。
事実、三年生が引退した後の黒尾はキラキラしていた。のびのびと、バレーに打ち込んでいた。新しいチームでバレーができることにうきうきしていた。
私はそれが、本当に楽しそうで、本当に嬉しそうで、嬉しかったのだ。

「あ、黒尾が悪いとかじゃないんだよ。お互い気持ちを言ったことがないから仮定だけど、私達が両想いだったとして。黒尾は、バレーも私も大切にしたいと思ってくれてたと思うし、私も黒尾を大切にしたくて、バレーを疎かにしてほしくなかったの」
「……」
「それで、多分黒尾が忙しい時に、告白するかしないか悩んでくれてる間に、好きより応援する気持ちの方が勝っちゃって。それでね」

懐かしい話だ。
クリスマスの初デート。ジャージ姿の黒尾と、近くのクリスマスツリーを見に行った。どちらともなく手をつないだ。キラキラしていた。黒尾の手は温かくて、大きくて、硬くて、スポーツをやる人の手だった。
あの頃、黒尾が中途半端は良くないよなあと考えていたことを、私はなんとなく感じていた。

そういえばあの日、私が好きだと言ったカスタードパイを、部活帰りに買ってきてくれたっけ。
週に一、二回食べているのに、黒尾とのクリスマスを思い出すこともしなかったなあ、と気づく。

クリスマスからしばらくして、私が黒尾を呼び出して、言った。

『付き合ってすれ違ったり喧嘩したり、悩みの種になるようなことにはなりたくないなあって思うんだけど、どう?』

悩んだ末の提案だった。
黒尾は私の顔を見て少し困った顔をしてから、本当に困ったような顔をして笑った。そして。

『……ありがとうな』

そう言って、私の遠回しな提案を受け入れた。
私は下手に付き合ってこじれたり、純粋に応援できなくなってしまう可能性と一緒に、恋心を捨てたのだ。

その後も、バレー部ファンとして応援に行ったし、部活の皆に差し入れることもした。
そしてあの年、音駒男子バレー部は、全国に行った。

あの時の感動を、今でも忘れない。

卒業後はどちらかに恋人ができたこともある。お互いの恋愛相談もしたし、恋人がいない期間なら、二人でお酒を飲んだことだってある。

何も始まらず綺麗なまま終わったおかげか、黒尾の性格か、私と彼の関係は良好だったし、友人として長い付き合いになっていた。
私も黒尾も、〝もう部活が無くなったのだから付き合おう〟なんて都合のいいことは言わない。あの恋はあの時終わったと、お互いにわかっている。

私の中であの時の恋は、恋心よりも大きな感動で塗りつぶされて、綺麗なままになっている。

「ふうん」

研磨くんは何とも言えない表情でクリームソーダを飲み干す。私も、残った甘いパイを食べきる。

頃合いを見て、研磨くんが「行こっか」と一言。
私はそれに頷いて、ノートパソコンが入った重たいリュックを背負った。

お会計はいつも、経費だと言って研磨くんが譲らない。手書きの伝票をマスターに渡して、アナログな感じのするレジがピ、ピ、ピ、カシャンと音を立てる。

「二人とも、また来てね」

マスターの人の好い笑みに同じように返して、お店を出る。
うだるような暑さ。晴天から、太陽が照り付けている。

何度も乗せてもらった研磨くんの車に「お邪魔します」と乗り込んだ。この後は、彼の家で次の動画の打ち合わせの予定だ。

さん」
「どうしたの?」
「もうクロの事好きじゃないの?」
「友達だよ。そんなに気になるの?」

黒尾には何度か彼女ができていたし、私は彼女になってすらないけれど、お兄さんを取られるような感覚だろうか。そんなふうに思うと微笑ましくて、小さく笑う。
どうやらそれが不服だったらしく、研磨くんはムッとした顔を見せた。

さんって、人のこと見てるようで見てないよね」
「え、何それ失礼」

彼は極めて安全運転で、慣れた道を進む。決してよそ見をしないまま、私をちょっと貶す。

「俺、高校の頃、さんのこと好きだった」

研磨くんの、とても落ち着いた声がした。
私はそれに反応できず、腕に抱えているリュックを落としそうになりながら、寸前で抱え込んだ。彼の横顔を凝視する。それしか、できない。

「え」
「ほんと。でも、クロと付き合ってるんだと思ってたから」

「でも、卒業したらクロ、別の女の人と付き合ったりしてるし」とそんなふうに言いながら、乱れない運転。こっちはほとんどパニックだ。黒尾の事を聞かれたときの、何倍も。

「だけど、さん卒業してからきっかけないし。そんな時にクロが、〝なら編集とかできんじゃね〟とか言うから、連絡しちゃったんだけど。……気づいてないでしょ」

車が丁寧に駐車されて、目の前には研磨くんの家がある。もう何度もくぐった玄関が、そこに見えている。なのに、私の体は緊張でガチガチだ。

ハンドルに少し体重をかけて、研磨くんが私の方を楽しそうに見ている。

随分向こうに行ってしまった、綺麗なだけだった恋心。それよりも鮮烈な瞳で、彼が見ている。

「取って食ったりしないから、大丈夫だよ」

研磨くんはそう言って、運転席から外へ出た。そのまま助手席の方に回って、ドアを開ける。私の腕の中のリュックを持って、「やっぱちょっと重いね」と言う。

さん、呆けすぎ」
「ご、ごめん。びっくりして」
「見たらわかるよ」

一つ年下の、男の子。

私の中の研磨くんは、高校生の時のあのままの印象だったけれど。
彼は大学生で、株式トレーダーで、プロゲーマーで、YouTuberで、会社の代表取締役だ。それを急速に、意識する。

高校生の男の子ではなく、大学生の、すごい、男の人になったのだ。

(クリームソーダばっかり、思い出しそう)

玄関を開けながら「早く入ろうよ。暑いでしょ」といつも通りの彼をを追いかけて、そう思う。

強烈な夏に、冬の恋が押し流されてしまいそうだ。

クリームソーダとカスタードパイ

  • 2020/09/16
  • remedy(パリジェンヌの墓場)
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