彼は夜が似合う人だ。
漆黒の髪に、黒々とした瞳。スラリとした身体。細く見えるその服の下には無駄のない筋肉が潜んでいる。闇に潜んで彼が何をしているか、私はきちんと理解しているつもりだ。幼い頃から知らないふりをして知っていた。それが必要だからと、両親から、耳にタコができるくらい聞かされている。

珍しく、夢を見ていた。幼い頃の夢だ。初めて彼に――許嫁に会ったときの。
幼いけれど変わらない顔の彼が、「よろしく」と私に手を差し出す。私はそれを見てキョトンとして、それからパッと笑って手を取る。少し年上の、お兄ちゃん。ちゃんと立場を理解していなかった私は、「新しいお友達!」と思っていた。
けれど、違った。成長するにつれ、自分達がどんな関係なのかを正しく理解した。した、というよりは、させられたの方が正しいかもしれない。

歳を重ねるごとに求められるものは多くなった。一般的な良妻に求められる能力は勿論、ゾルディック家に対する正しい理解と、自分の身を守る術。まあ、私は後者に関してはことごとく才能がなく、両家に多大な不安を与えたのだけれど。
両家からどんどんと積み重なる要望に、応えきるのは難しい。語学などの勉学に関することは努力でもなんとかなりそうなものだけれど、体を動かすことはめっぽうだめだ。私は長らくそのことに引け目を感じていた。
その程度と言えばそうなのかもしれない。けれど相手はかのゾルディック家。十分破談の理由になることを私はしっかり理解している。

そうならないのは、彼が守ってくれているからだということも。

ふわりと風が動く。寝ぼけた頭の中、薄く開けた視界に入ったカーテンが揺れている。

「……イルミ……?」
「あれ、起きた?」

声をかけると、その人はいつもとほとんど変わらない顔でこちらを見る。けれど驚いていると、わかる。何か違う、その程度だけれど、大体の機微は察することができる。こんなわかりにくい人と長年一緒にいるせいか、私は人の心の動きにえらく敏感だ。
布団をまくって起き上がろうともがく私を、彼は「いいよ」とその一言で留めた。

「シャワー浴びてくる。寝てていいから」
「わかった」

寝ぼけた声のまま素直に聞き入れると、イルミは満足そうな後ろ姿でシャワールームに向かっていった。勝手知ったる他人の家だ。今さら何も説明はいらない。

時計を見ると午前三時。普段良質な睡眠をとれている私にとって、この時間に時計を見ることは珍しい。それこそ、彼が訪れた時くらいだ。
少しずつ頭が覚醒してくる。真冬ではないがやはり夜は少し肌寒い。起き上がり、ストールを肩にかけてから、お湯を沸かし始めた。お湯を沸かし始めたはいいけれど、イルミは何か飲むだろうか。コーヒー……はこの時間だし、そのまますんなり寝るかもしれない。でも寝る前に温かいものを飲むのはいいことだ。一息ついてから眠ってもらいたい。
結局お湯を沸かすのをやめ、ホットミルクを作ることにした。これならば誰でも飲めるだろう。お酒が欲しいとなればここに入れてしまえばいい。

シャワーの音が聞こえてくる。私はわりと、この時間が好きだ。服を脱いで身体を流すという行為。お風呂というのは得てして隙が多い。その時間を、私の元で過ごしてもらえる。そのことが、ひと時だけれど普通の恋人ように思えるのかもしれない。

さっき一度止めたお湯の鍋をもう一度沸かし、イルミ用のマグカップを棚から取り出して煮沸する。毒はイルミには効かないし、毒だって熱でどうにかできるものばかりではないし、何なら私はここで普通に生活していて死にかけたことなど一度もないし、これは余計な手間なのかもしれない。けれどこの程度の手間をかけずに、彼に何かあったらと思うと石橋を叩いて渡りたくもなるというものだ。

お湯からカップをあげて少しした頃、後ろでシャワールームの扉が開く音がした。体と髪を拭いて、洗面所にしまってある新しい自分の服に着替えてからイルミが出てくる。

「起きてたんだ」
「うん。ホットミルク飲む?」
「なんでホットミルク?」
「うーん、落ち着くかなと思って」
「ありがとう、飲む」

ホットミルクをカップに注ぐ。マグカップが熱すぎないか確認してから彼に手渡す。
ベッドに腰かけるイルミの隣に座り、タオルを彼からひったくると、私は長い彼の髪を丁寧に毛先から拭いていく。綺麗な髪から、うちのシャンプーの匂いがする。この時間も、好きだ。最初はそんなことしなくていいと言われたけれど、趣味だと言い切っていたらいつの間にか許されるようになった。彼は自分からやってくれとは言わないけれど、私が勝手にする分には、勝手にされていてくれる。
してあげられることが少ないのだから、なんだってしたいのだ。

「眠くないの?」
「いつも快眠だから大丈夫。イルミ、お疲れ様」

彼が今日何をしてからここに来たのか、私は正しく理解している。その向こうには優しくない事柄があって、笑う人と泣く人がいる。けれどこうして触っていても、背中に鼻をくっつけても、嫌な鉄の匂いはなくて彼の匂いとうちのソープの匂いだけがする。毎回毎回こんな時間に訪れて、最初に行くのがなぜシャワールームなのか、私はちゃんと理解している。彼がそういう匂いから私を遠ざけようとしていることを、知らないふりをして知っている。この人は、なんだかとことん私に甘い。

髪の水分をしっかり拭い、タオルをサイドテーブルに置いて、横からそっと彼の小指を握る。未だにそういう触れ合いは恥ずかしい。恥ずかしいけれど、嬉しい。だって、二十歳を超えてまで同じ人と一緒に居て、まだこんなことに恥じらいを持っていられるというのは、いかに彼がゆっくりと、私のペースで私を大事にしてくれているかの証のように思うから。

イルミがそっと顔を寄せる。唇と唇を合わせるだけの、可愛らしいキスをする。サイドテーブルにカップを置いた彼が、私を優しく包み込む、そうしてベッドに横たわり、布団をかけて頭を撫でる。変わらない顔で、だ。けれどそれが、なんだかとても好き。ほとんどが子供扱いだ。だけど別に、不安にはならない。

「腕枕いる?」
「してくれるの?」
、恋人らしいの実は好きだよね」
「バレてたかー」

ははは、と笑う私の頭の下に彼の腕が滑り込む。そうして抱えるようにして、近くにいる彼が「おやすみ、」と私の名を呼ぶ。口元に隠し切れない笑みが浮かぶのを自覚しながら、私は目を細めて言葉を返す。

「おやすみ、イルミ」

私はこの人に似合う夜が好きなのだ。

3:00 a.m.

  • 2018/10/21
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