よく行く書店で時々見かけていた彼から、初めて声をかけられたのはいつだっただろう。興味もなく、感心もなく、ただ少々、整った顔だな、程度の認識を持っていただけだったのが大きく変化する切欠というのは、人が思っているよりもずっと些細で些末なことにすぎないと、あの時の私はまだ理解できていなかった。
美しいステンドグラスの青を見、呼ばれて視線を外へ向けたとき、彼の周りが光りと色の残像によって綺麗な色をしていたから、半ば無理矢理な誘いにも応じたのだろうと今になってわかる。

あの日、私の意識の中に入り込んだ彼の存在は、今も私の側にあるのだ。


目を覚ますとコーヒーの香りがする。それが私の、最近の日常だ。人の気配がする。すぐ近くで。とても不思議な気持ちだった。もう何年も、人の気配の元で眠ったことなんてなかったように思うのに、今確かに、ここにある。

昼も夜も、ただただ恐ろしかった。幼い頃のトラウマというのは早々消えるものではないというのが私の長年の経験と結論だ。だから今でも子供が辛い目にあっているのを直視できない。助けるだけの勇気もない。私はその時ひたすらに目を閉じ耳から音を押し出して、じっと自分の記憶に耐えている。体に刷り込まれた防衛反応は未だやや過剰に反応して、相手の手が上がればビクリと体が揺れるのだ。そして、身構える。次に来る衝撃に耐えるために。

『まだ昨日のことのように覚えてる』

そう私が言った。自分の想いを告げてくれた彼に。
だから人と関わりたくないのだと跳ね除けようとしたあの時に。

癖のように染み付いた仕草で俯きがちになりながら、できる限り平静を装いながら、しかし内心では必死になりながら、私はそれを彼に伝えなければならなかった。
今まで誰にも話したことのない過去の恐怖を素直に話せたのは、彼がそれを知っていたからだろう。パクノダに読み取られた記憶に彼が何を思ったのか、なんとなく予想は付いている。元々人の思考に敏感な方だ。同情だろうか。疑問だろうか。そういう色が薄っすらと載る瞳を見て、ああこの人も取り繕うことが得意なのだろうな、と思った。
私は望む望まざるに関わらず彼の正体を知っている。別に聞きたかったわけではないし、できることなら知らないままに、何度かお茶をしたただの本好き仲間であれればいいと、聞かされた直後は思っていた。知ってしまってアジトへ連れて行かれて、何で私がこんな目に遭っているのかと思いもした。平凡で平和な、大きな起伏のない人生を送りたいと思っていたから。

情が生まれたのだ。

だからきっぱり断らず、わざわざ自分の内心を話してまで理由を教えた。怖いから、一緒にはいられないという意図を読み取ってほしかった。嫌われたくはなくて、でも傍にいるのは不安で。
それなのに彼は、私の考えなど読み取った上で言ったのだ。

、どんなに近くても昨日は過去だ』

そう言って私の両手を包んで、『俺はといる間は穏やかでいられる』などと言って、私の目をジッと見るのだ。人と目を合わせるのが苦手な私がそれを逸らすと、少し笑って覗き込む。

『嫌ならいい』

そう言ったあの穏やかな、断られることなど考えていないような笑顔が今も瞼の裏に浮かぶのだ。そしてそれが、彼の傍にいても居ても大丈夫なのだと、彼は自分に危害など加えないのだと、確証のない信用を呼ぶ。


「起きたならこっちへ来い」。そう、落ち着いた声がした。それだけで安心するのだから、私はクロロに接することで随分単純になったものだと思う。
毛布を適当に畳んで声のする方へ。コーヒーの香しい匂いが近づくのを感じる。クロロが淹れるコーヒーは本当に美味しいのだ。

「おはよう」
「おはよう。ごめん、寝すぎた」
「気にするな。パン焼けてるぞ。りんごはいるか?」
「……クロロ、お母さんみたい」

まあ、起きるのが遅かった私の分まで朝食を用意してくれていたのだから、そう見えるのは私のせいなのだけれど。そう思いつつパンをかじると、クロロは一瞬キョトンとしてから私の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

「俺はお母さんじゃなくの恋人なんだけどな?」
「ごめん。……夕食は私が作るから」
「そうしてくれ。俺はの作る飯が好きだよ」
「……うん」

父が死んで母が亡くなって、長年の一人暮らしで培った料理の腕はクロロに出会うまで人に振舞われることがなかった。知人以上の深い付き合いをしてこなかった私には、料理をして持て成すだけの友人もいなかったからだ。それをクロロが初めて口にしたとき、彼は優しく微笑んで、本当に嬉しそうに「美味い」と言ってくれた。だから、今まで自分が生きるためだけに最低限やってきた料理が、今は楽しいと感じるし、クロロの反応に少しわくわくしている。

「でも、普段ならスッと起きてくるのに珍しいな。どうしたんだ?」
「クロロに借りた本を読んでた。面白くて止められなくて」
「ああ、それでお前の枕元に置いてあったのか」
「あ、ごめん。開いたままになってた?」
「いや、ちゃんと丁寧に置いてあった」
「そう。よかった……」

コーヒーの入ったカップに口を付けると、クロロの手が私の髪に触れた。さっき掻き混ぜたのを繊細に解いていくように優しく撫でる。その指の優しさが好きだ。口で言われなくても気持ちが伝わる。伝えてくれている、と思う。
あの時クロロが言った通り、一緒にいるときのクロロは穏やかだ。本当に優しく、丁寧に、宝物を扱うかのように触れる。パクノダとマチが言うには、旅団の団長としてのクロロとは違う顔。
私はまだ団長としてのクロロをよく知らない。彼は知らせる必要があると思ったなら確実に知らせてくれるだろう。だから、言わないのなら、示さないのなら、まだその時期ではないのだろうと思う。何もない日々を生活してきたのだから、待つのはしんどくはない。そうクロロに言うと、彼は驚いたような顔をしてから私を抱き締めた。

クロロは私に危害の加わるようなことは絶対にしない。頭を撫でる、手を握る程度のことは日常的にするのだが、それ以上不用意に触れるようなこともない。私が元々恋愛に不得手だからだろうと思う。でも、きっとそれだけではないのだろうな、とも思う。
男の人が恐かった。あの時話したことは、要約すればそういうことだ。クロロはきっと、私が抱き締められたときに体を少し強張らせるのを、まだ恐いのだろうと思っている。彼がそれを教えるわけではないけれど、私はなんとなくそうなのだと思っているのだ。私からしてみれば、単に慣れないだけ。クロロは恐くないと日々思う。けれどそれを示すことはできないでいる。

彼は明日どうなるかわからない身だ。“念能力者”というのはそういう人ばかりだとクロロは言っていたけれど、私にとっては実感のわかないことだった。旅団の皆がそうだ。少し馴染んできた今は、そういう認識でいる。それなのに、いつもクロロは私に合わせて距離を図ってくれているのだ。それがなんとなく、時折思い出すかのように申し訳なくなる。

クロロはいつでも私が喜ぶことをして、私の嫌がることをしない。
ならば、私もそうしてあげたいと思うし、クロロの好きなように触れてくれていいのにと思う。

ふ、とアジトの中に今日は誰もいないことに気が付いた。最近はマチとパクが私の様子を頻繁に見に来てくれていたから、この時間なら普段ならもう二人分の気配があっていいものなのだ。けれど今いない。
なるほど、普段団員がいるところでは接触を控えるクロロが私の頭をよく撫でるわけだ。あまり大っぴらに触れ合うと私があまりに恥ずかしそうにするからと、いつからか彼は人がいるところで触れるのを少なくしている。これも、私のためだ。クロロは優しい。優しすぎる。私に対してあまりにも。

「クロロ」
「どうした?」

コーヒーを飲み干してカップを置いた。クロロは少し不思議そうに私の目を見ている。彼と目を合わせるのは、嫌いじゃない。ただジッと見られると少し恥ずかしい。私は視線をずらしながら「えっと……」と戸惑って強張る唇を動かした。

「……抱き締めて、ほしい」
「は?」

チラリと視線で彼を見ると、珍しく目を丸くして本当に驚いているようだった。やはり、まずかっただろうか。彼がせっかく控えてくれているのに。でも私にできることなんてこれくらいだ。クロロに、クロロの好きなように触れていいのだと告げるくらいのことしかできない。与えられるばかりで何もできないのは嫌だった。庇護されているだけでは、対等じゃない。それこそ私はクロロの“子供”のようになってしまう。

驚いていたクロロの手がふ、と私の肩を寄せた。私より大きな体に抱きすくめられて心臓が跳ねたのがわかる。肩が一層小さくなって体にギュッと力が入る。それと同時に、クロロの腕の力が緩むのだ。恐いわけじゃない。そういうんじゃない。それが上手く伝わらない。彼は私の頭を撫でるだけでも伝えてくれるのに、私にはそんな器用なことができないでいる。
何のために人間には口があるのか。もしかしたら私みたいな不器用な人間が、相手にちゃんと理解してもらうためにあるのかもしれないと思った。
緩んだクロロの腕の中で小さく動く。腕を出して、大きな背中に手を回した。戸惑いがちに触れる私に気づいた彼の体が、また驚いたように揺れる。そんな意外に思わせるほど、驚かせるほど、私は今まで行動ですら示せていなかったのだと再確認した。初めてのことばかりで追いつけていなかったとはいえ、自分が不甲斐ない。

「……恐いんじゃない」
?」
「少し、緊張するだけ。だから、クロロが触ってくれないと、私はいつまでも慣れられない」

「私から行くのは、まだ恥ずかしいから」。そう言ってクロロの顔を見た。思えば自分から目を合わせるのは初めてだ。いつも逸らしてばかりいた。だからほら、今も彼は驚いていて、腕には力が入っていない。
不満があれば言ってくれればいいのに、彼は恐らく言わないだろう。まだ私は、彼に気遣われているのだと感じる。そう思うとより一層、過去の出来事が恨めしかった。

「クロロ」

名前を呼ぶ。ハッとしたようにクロロの目が変わった。すると私を抱きしめる腕の力が強くなる。グッと引き寄せられた体にビクッと揺れたのは私のほうだ。けれど彼の力は緩まない。ああ、ちゃんと伝わったんだな。と安心して力を抜くと、その場所は驚くほど安心する場所だった。

きっと世界一落ち着ける場所

(コーヒーの香りと貴方の腕の中)
  • 2013/01/21
  • 11
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