音が鳴ると、目を覚ます。消えない目の下のクマ、止まない頭痛、寝不足に慣れた体。付きまとう倦怠感には、二十年も生きていればもう慣れた。午前三時。眠りについてから三時間は寝られたことを確認する。三時間も続けて寝られれば良い方だ。額の汗を拭う。自分の体温で僅かに温かい布団の中、もぞもぞと足をすり合わせる。ベッドの中で芋虫のように丸くなり、ギュッと目をつむる。そこには暗闇だけがある。頭の中で「この家には一人きり」と言い聞かせ、無理にでも寝ようとする。けれど、寝ようとすればするほど眠れない。そうして四苦八苦するうち、いつの間にかまた眠りについていて、短い睡眠の後、何かの音で起きる。それは上の階の足音だったり、下の階の水音だったり、向かいの家のドアが閉まる音だったりする。そうして音に起こされるたび、汗をかいて起きるたび、思う。

私はまだ縛られている。

物音と、人の手が怖い。そんな生き辛い性質のせいで親しい人間はあまりいない。職場の人間関係も浅いもので、一日に二、三言、業務内容について言葉を交わす程度だ。本屋で働いていて、読書が好き。むしろ、趣味という趣味がそれくらいしか浮かばない。物音を誤魔化すため、時折音楽を流す。たいていは落ち着いた、静かな曲を。けれどそれすら煩わしいことがある。
私、は、日々怯えながら生きている。人と接することが少ないこと、表情があまり変わらないことで気丈に見えているようだが、いつも周りを注意しながら、恐ろしいことを避けて生きている。できるだけひっそりと、波風を立てず、居ても居なくても同じ人間になるように努める。そうしていなければ怖くて外も歩けないのだ。
苦手な物は多いが、一番は生活音だった。どちらかと言えば喧騒の方がまだましだ、と思うくらい、生活音が苦手だ。よく生きてこられたな、と言われてしまえば、まったくもってその通りだと自分でも思う。自分の生活音すら最小限に、可能な限り音を立てずに生きて来た。そんな面倒くさい人間は、人間の面倒くさい性質のせいで、それでも社会から自分を切り離せないでいる。


再び目を覚ましたのは五時だった。あれから一時間は寝られなかったから、一時間は寝た。今日の睡眠は合計四時間。良い日だ。これ以上無理に寝るのも労力を使うので、早々に着替え始める。黒のタートルネックにジーンズを履いて、その冷たさに体を震わせる。冬は布団から出るのが名残惜しいが、ぐずぐず寝ていても仕方がない。どうせ寝られないのだから、寝られない寝られないとイライラするだけなのをわかっている。簡単に食事を作って、義務のように食べる。一人暮らしが長いおかげで腕はそこそこだ。朝の定番はトーストとスクランブルエッグ。卵料理が簡単で、ありがたい。

今日は仕事が休みで、特にこれといった用事はない。休みの日はいつもそうだ。起きていてもやることはないが、眠れないストレスに比べれば退屈もどうってことはない。
家にいるとどうしても生活音が気になるので、私は休日になると早々に家を出る。何も用事がなくても。一月前、アパートの向かいに越してきたのは、父、母、幼い子供の三人家族で、母親は専業主婦のようだった。買い物や用事以外はいつも家に居て、掃除、洗濯、料理など、とてもいい奥さんだ。子供も元気で可愛らしく、父親もできるだけ早く帰って来て育児に参加する、絵に描いたようないい家族。けれど私はそういう、家族の物音こそが、苦手なのだ。

使った食器を洗いながら、今日もあそこへ、と暇をつぶすいつものルートを思い浮かべる。生活音ほどじゃなくても、喧騒は好きではないのだし、できる限り自分が落ち着く環境に身を置きたかった。それが、二十年と少し、かろうじて生きて来た私の生き方だ。諸々の仕度を済ませ、戸締りをし、荷物という荷物も持たないまま靴を履く。玄関を出て鍵をガチャリと閉めても、この部屋には盗られて困るようなものもないな、と思う程度の家だ。本当に、寝床が欲しくて借りているような賃貸である。

「あら、おはようございます」
「おねえちゃんおはよう!」

丁度向かいの家も出かける所だったらしい。にこやかで人の好さそうな笑顔の母と子に、私もできる限り柔らかい表情で「おはようございます」と返事をした。

「おでかけですか?」
「ええ。馴染みの古書店まで……そちらは?」
「明日ピクニックをするので、お弁当の材料を買いに行くんです」

幸せそうな家族。うちの家もこうだったなら、私はこんな面倒な人間にならずに済んだのだろうか。「それは、楽しみですね」と笑いかけてから、お先に失礼と歩き出す。歩く道はいつもと同じ。動き出した人々の喧騒をかき分け、代わり映えのない路地に入り、少し曲がって、足早に進む。閑静な場所の奥にある、知る人ぞ知る古書店。幼い頃から馴染みの店主は、あの頃黒だった髪を真っ白にして店の奥に鎮座している。

「いらっしゃい」

ぶっきらぼうで低い声に迎えられると、私はほっと息をつく。息をつく、なんてことができるのは、私にとってここくらいのものだった。

「おはようございます」

そう言えば、うん、と一つ頷いて彼は手元の本に視線を戻した。私がジェンど呼ぶその人は、無愛想で寡黙だが、表情の柔らかい人だ。幼い頃、家から出された冬の日に、私は初めてこの店の前を通った。ボロボロの服にボサボサの頭。みすぼらし恰好で、少しでも寒さを避けようと細い路地に入った時、彼は私に気付いて入りやすいように扉を開けていてくれた。せっかく温めていた室内を冷やしてまでそうしてくれて、それでも外よりも幾分暖かい建物に惹かれて来た私に「入っていいよ」と声をかけてくれた。おずおずと俯きがちに入ってきた可愛げのない子供相手に、毛布と、暖かいココアを出して、「好きなときに来るといい」と。
あの時六歳だった私は今二十五歳になっていて、もう十九年の月日が経っている。長い間、言葉少なく、けれど同じ時を共有してきた彼は、私の事情も何もかも知ってくれていて、それでも居心地のいい距離のままいてくれる、私にとって希少な信頼のおける人だった。今でも暇な時はここに来て、本を読む。お客用の読書スペースでなく、店の一番奥にあるレジの向こうに小さな机と椅子を用意してくれて、何時間でも居ていいと言う。私はお礼に、小さなキッチンでコーヒーやら紅茶やらを淹れて、お客のいないときはそれをジェンに差し出して、そうしてお礼にもならないような小さなお礼を受け入れてくれる彼が、私は心地よかった。

人の出入りが少ない店内は静かだ。来る客も大抵顔馴染みで、一様に穏やかな時間をここで過ごしていく。ここには警戒するものなんて何もない。店内を歩き回って、今日読む本を探す。どんな本を探そうか。先週は探偵物で、その前はファンタジーだった。私の背よりも優に高い本棚にぎゅうぎゅうに詰められている本の背表紙を目で追う。古い物から、比較的新しい物までいろいろあって、八割が読んだ本。残りの二割を探すか、昔読んだ本を懐かしむかのどちらかだった。

「あれ……?」

見覚えのない背表紙。取り出してみると、丁寧な装丁で彩られた、青い表紙の本だった。

「こんな本あった?」
「ん? ああ、それは先週来た新顔が売っていった本だよ。丁度お前が来た次の日だったな」

私が淹れたコーヒーを飲みながらジェンが返事をする。新顔。私が知らない新しいお客がここに来たということか。
この店のステンドグラスの青に似ている、と私は思った。深い味わいのブルーと、丁寧な銀色の細工。見ているだけで息が出るほど美しい本だ。随分古そうだが、扱いが丁寧だったようで状態はとてもいい。

「面白かったから、読んでみるといい」

彼が面白いと言うのだったら、本当によかったのだろう。「うん」と頷いて、席に戻る。
春とは言えど、まだ寒い。ストールをかけなおして、ふとレジの奥にあるステンドグラスを見た。細やかな細工とブルーの深い色。寒色でまとめられた、美しい作品だ。詳しいことは知らないが、どこか優しく、どこか切ない。昔からこれを見ると、私は穏やかな気持ちになる。

――カランコロン

店の扉が開いて、あの人が「いらっしゃい」と言った。ふ、と扉の方を見ると、見た事のない客だ。暖かそうな黒いセーターと、シュッとしたズボン。額に包帯を巻いて、耳には特徴的な青の飾りをしている。その人が「こんにちは」と穏やかに笑って見せた。

「……こんにちは」

私は小さな声で返す。また臆病になる心臓に嫌気がさす。けれど何も知らない彼は、少し笑みを深めて本棚に向かった。

、あの人だよ。その本持ってきたの」
「……そうなの?」

改めて彼を見る。穏やかな目で本を眺める彼は、ここのお客にしては若い。私と同じくらいの年だろうか。本に触れる手つきは丁寧で、今読もうとしている本が彼の持ち物であったということになんとなく納得する。あの人が持ってきた本は、どんな世界なのだろう。静かに本に向き合って、少しずつ息を整える。きっと、こういうのはもう、どうしようもないものなのだ。幼い頃から強く刻み込まれたこれが、こんな歳になってもまだズキズキと痛む。きっともう、治りっこないのだろう。上手く付き合っていくしかない、そういうものだ。そう、諦めて。

(ここには警戒するものなんて何もない)

ジェンも居てくれる。だから、大丈夫。そう言い聞かせる。それにももう、慣れている。
胸を押さえ、深呼吸をして、本を開いた。本を開いてさえしまえば、ここから先は物語の世界だ。

おとなになってしまったせいで

(もう慣れた、こんなこと)
  • 2016/12/10
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