近頃、逃げ出したい、とよく思う。


朝起き上がった時、昼一人で夕飯のことを考える時、夕方に今日買う物のメモを書く時、彼のことを考える。任務で疲れている彼が、私の起きる音で目を覚まさないようにそろりとベッドを抜け出すのも、昼に一人で食事を食べながら夕飯の献立を考えるのも、できるだけ良い物を食べさせてあげようと素材をしっかり見て選ぶのも、全部、全部が彼のためなのだ。同期の皆よりも一人だけ早く中忍になり、今では火影様達からも信頼される忍になった。忙しく、辛い任務も多いだろう、重い責任を背負うであろう彼が、少しでも任務の疲れを溜めないために、少しでも次の任務で怪我をしないために。

「いってらっしゃい」
「おう」

わかっている。これを言わせてもらえるのは私だけだということも、彼をここで待つことができるのが私だけだということも。

けれど――


ー!」

聞きなれた元気な声がした。振り返るとブンブンと手を振りながら駆けてくる、頭に思い描いていた女の子。私は笑顔を向けながら「いの」と彼女の名前を呼んだ。アカデミーの頃から親しくしている少女は、今も前線で活躍している忍とは思えないほどに可愛く、綺麗だ。彼女は私に追いつくと、私の手にある買い物籠を見て「夕飯の買い出し?」と尋ねた。

「うん。いのは?」
「任務から帰ってきたところなのよ」
「そうなの。お疲れ様」
「まったくよ! 皆無茶ばっかりするから、回復がおっつかないことも多くて――ま、今回は大した任務じゃなかったんだけどね」

店の方向へ二人そろって歩き出す。同期達はナルトを除いて皆中忍になって、部隊長として活躍する彼等は日々忙しそうだ。

「あーあ、との任務が恋しいわー」

そう言ってくれるいのに苦笑した。皆と同等の力を持っているはずの自分がこうして里でのんびりとしていることにヤキモキすることは多い。私が忍として任務に就いていた時間は長いとは言い難かった。皆が今も積み重ねているその時間を、悠々と過ごしている自覚もある。引退したとき火影様からは「いざとなったら出てもらうかもしれないが……」と申し訳なさそうに言われたが、その〝いざ〟も早々起こることではないのだ。この優秀な忍を多く抱える木ノ葉の里では、私より強い人はたくさん居る。もしもその〝いざ〟が起こったときに駆り出されたとしても以前のように動ける自信はあるが、それはあくまでも以前のままで。今も成長を続ける同期達と同等の働きを出来るかと言われると、私は年々その自信を弱くしていくのみだった。

「あ、別に責めてるんじゃないのよ? が復帰したいって言ったって、多分シカマルは反対するんだろうし」
「そう?」
「そうよ。あいつには、家で迎えてくれる奥さんが居るのがいいの」
「ふうん……」

本当に?

私は僅かに視線を落とした。本当に、そうだろうか。優秀な人には、優秀な恋人が、妻が、居るべきなのではないだろうか。私は忍としては優秀だと言われていたけれど、妻としては劣等生だ。結婚をして数年。今もまだ、自分の至らなさに情けなく思うことは多い。それに彼が文句を言うことはないけれど――と思考に深く入りそうになっているのに気付いて、私は慌てて顔を上げた。すると、いのの不思議そうな青い目と至近距離で視線がかち合う。

「何かあった?」
「……何もないよ」
「……そう?」

いのは納得のいかなそうな顔をしたけれど、私が微笑んで見せるとそれ以上の追及はしなかった。珍しいな、とそう思ったけれど、その方が都合のいい私は何も言わない。面倒見のいい彼女のことだから何かしらあってもおかしくはなかったのだけれど、今はその〝珍しい〟が救いだった。

「それにしても、も大変よね」
「何が?」
「私達は任務が終われば仕事は終了だけど、はそれこそ一日中じゃない。夕飯作ったり、お風呂入れたりさ」
「……両立してる人もいるもの」

苦笑すれば、「は謙虚よねー」と一言。そんなんじゃないんだけど、と私はまた自分の表情が陰るのを感じた。近頃ずっと、こんな感じだ。表情が漏れてしまうことなんて、現役の頃ならあり得なかったのに、と自分がそれから離れて行っていることを感じながらも私は表情を元に戻す。微温湯に浸かっているような、生温い所でのうのうとしているような、そういう感覚だ。

「……最近、やっぱり忙しい?」
「うーん、そうね。気になる動きもあるし……」
「そっか」
「どうして?」
「シカマルが、疲れて帰ってくることが多いから」

そう言って漏れるのはまた苦笑だ。もっと忍らしい、まともな表情があるだろうに、今の私にはそれを出すほどの余力もないらしい。けれどいのは目をぱちりと瞬いて、軽く私に飛びついた。

「あーもう! ほんと、は出来たお嫁さんよね。やっぱりシカマルには勿体ないわ!」

「そんなことない」。咄嗟に出た否定には、謙遜の欠片も含まれてはいなかった。
外に出て行かない我儘は、心の中に降り積もっていっている。それは重く、暗い色をして、私の心を濁していくのだ。そしてそれを消し去る術を私は知らない。それなりの不満も、それ故の要求も、持ち合わせてはいるのだけれど、私はそういうのを隠すことはどうやら上手いらしかった。それだけが私の冷静を、際でなんとか留めている。

買い物に付き合ってくれるといういのに甘え、二人で会話をしながら夕飯の材料を買い込んだ。人と居ると、いくらか気持ちが紛れると思う。そう思うということは、やはり私は今、何かしらを心に抱えているのだ。モヤモヤとした、悩みにすらならないような物を。そんなわけのわからない物が、中途半端な物が、私を不安に導いている。


その日、シカマルは十二時を過ぎた頃に帰宅した。「おかえり」と言うといつも通り「おー」と気の抜けたような返事をする。夕飯は食べられるかと聞くと、一応食べるとの返事があった。風呂に入るのも億劫そうにしながら、それでも明日のためにと今日の汗を流しに行く。おかずを温め終え、盛り付け終える頃に彼が出てきて、ご飯を食べ始めた。ゆっくりと進む箸、眠そうな表情。まだ濡れている髪に風邪を引いてしまうと思うけれど、食事中では拭いてあげることもままならない。この様子だと、今日の料理がサバの味噌煮でなかったら食べることすら面倒がったかもしれないと、何とかタイミングを計ることができたことにほっと胸をなで下ろす。たっぷりと時間をかけて器の中を空にすると、シカマルは「疲れたから寝るわ」と一言言って寝室へ歩いて行った。私は手早く後片付けをし、戸締りの確認をしてから彼の背を追うように部屋へ入る。その頃にはシカマルは寝息を立てていて、肩の力を抜いた私は彼を起こさないようにベッドの淵に腰かけた。

(また、拭いてあげられなかった)

湿った髪に触れることすら、疲れた彼の尖った神経を刺激するような気がして躊躇ってしまう。その手に触れたい、その腕に抱きしめられたい。いったいいつから、彼に触れていないのだろうか。根を詰めすぎているのではないだろうか。何か理由があるのだろうか。何も教えられていない私は、彼との少ない会話の中からは何も読み取ることができないでいる。これがもし、同じように忍として働く人間であったなら、読み取ることもできたのだろうか。

目が湿り気を増したのがわかった。それは粒となることもなく、目を潤しただけにすぎなかった。瞼が重いような気もするけれど、私の神経は過敏になりすぎて眠れそうにない。頭の中は絶えずグルグルと回っている。何か纏まったことを考えるでもなく、動いている。モヤモヤ、する。

(ねえ、気付いてる? ……私達、しばらく目もまともに合わせてないよ)

私は今日もきっとまた、眠ったことにすら気づけないように眠るのだろう。

言葉にならなかったからで、

(あなたに触ることができなかった手は、それでも耐えられなくてシーツを握った)
  • 2014/02/21
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