いつだったか、シカマルが帰ってくるのが遅くて一人で先に眠ったことがある。食卓に並べておいた食事は温めて食べられるようにしていたはずなのに、朝起きてみれば「温めて食べてね」と書いたメモ以外何も動いていなかった。疲れていて食べなかったのだろうとは思ったけれど、手を付けられず、動きもしていなかった料理を、朝起きて一番に見るというのが凄く寂しく思えて、それ以来、彼が帰ってくるまでじっと起きている。シカマルが夜にそれを食べるなら、向かいの席に座って静かに食べ終わるのを待ったし、食べないのなら夜のうちに冷蔵庫にしまった。

そうして布団に潜り込めば、朝に見るのはシカマルの寝顔だけで済んだから。


「遅い!」と急かすテマリに引きずられるようにして、シカマルは砂の里へ足を踏み入れた。頭の中は仕事がない分のことでいっぱいになってしまっている。泣いているのだろうか、とも思ったが、に限ってそれはないだろうと考え直した。泣く、なんて。そういえば俺は、の涙なんてものを見た覚えがないと彼は思う。一度流れるかと思ったそれは、結婚しようと言ったとき頑なに落ちず溜まったままの嬉し涙だ。

「ほら、さっさとを探しに行くぞ」

そう言いながら強引に背を押され、シカマルは前につんのめる。慌ててバランスを取った時、その目の前にあったのは赤い色だった。

「迎えに来たのか」

目に僅かな憤りを含んだ我愛羅を見て、テマリは少し怯む。しかしその目が向く先がシカマルであることに気づき、彼女はハッとした。シカマルは眉間に皺を寄せ、完全に体制を整えて我愛羅を見据える。胡乱気なその視線に気づき、我愛羅は聡いこの男が視線で訴えることが別のことであると知りながら、「を迎えに来たのか」と再度問いかけた。

「……悪いかよ」
「悪くはない」

「ただ」と続くその言葉を、シカマルは黙して待つ。沈黙した我愛羅は今朝のの様子を思い出していた。

『シカマルはそうじゃないかもしれない』

そう言った彼女の寂しそうな声に、確かに我愛羅の心は痛んだ。本人は隠せているつもりだったのかもしれないが、泣きそうな、少し震えた声だった。彼から必要とされていないと考えていたのか、振り返った彼女の笑顔はいつもの笑顔になりきれないで留まっていたのだ。他に誰も居ない空間の中で、素直に吐き出された彼女の〝不安〟はあまりにも切なかった。
我愛羅はゆっくりと瞬きをし、その緑の瞳でシカマルを真っ直ぐに見る。

「自分の意思でないなら帰ってくれ」

その言葉に、シカマルの眉間に入っていた縦皺はさらにギュッと濃くなった。お前はあいつの何だと言いたいのを堪えるのは、自分が彼女を今までどれだけ放ったらかしにし、どれだけ寂しい思いをさせてきたのかを理解したからだ。彼は奥歯が鳴るまで、そんなにも強く噛み締めていたことに気づかないほど、目の前にいる無表情な男を凝視して離さないでいた。

「会いたいに、決まってんだろ」

シカマルが自分で思っていたよりも、強い、強い語調で出たその言葉。驚いて、気まずさに、視線を驚いている我愛羅の向こうへ移す。そこには、やけに鳥達が集まっている場所があった。


空が赤くなってきている。俺は走りながら、アカデミーに入ったばかりの頃を思い出していた。
その日、いつもの特等席に行くかと思ったのは夕方だった。ゆったりと足を動かしながら、その場所への距離を縮めていると、見慣れた場所にやけに鳥が集まっているのに気づく。近づくにつれ、チュンチュンと小鳥の囀りが聞こえてきて、いよいよそれはその場所からのものであると確信したとき。

『……?』

バサバサッと鳥達が一斉に飛び立つ。現れたのは目を真ん丸にしてこっちを見ている、の姿。見慣れるというほど一緒に居るわけではない彼女のあんなにもにも驚いている表情を、俺はあの時初めて見た。はそこから動かないまま、『シカマル……?』と不思議そうに俺を呼ぶ。そういえば、にこの場所が俺の特等席であることを教えたことはなかったな、とあの時俺は冷静になって思っていた。そして同時に、忍術に真面目で、アカデミーに入ってから、夕方は熱心に修行をしているがなぜここにいるのかと疑問を持つ。

『何してんだ、こんなとこで』
『シカマルこそ』
『ここ、俺の特等席』
『特等席?』

『ここでボーっと雲見てんのが好きなんだよ』と言っての隣に座った。急に彼女が近くなった気がして、近くなった距離から体温が伝わってくるような気がして、酷く心臓が煩かった。そもそも、そんなふうに近くにいることは珍しかったのだ。家同士の縁はあっても、二人っきりで長々と会話をすることなんかなかったのだから。『ふーん……そういうのもいいねー』と能天気なことを言いながら雲を眺めるの横顔が、夕日に照らされてやけに綺麗に見えて、俺は彼女から目を逸らす。
黙っている沈黙がこそばゆくて、『にしても、お前凄いな』と鳥が集まっていたことに話題を向ければ、彼女は『座ってたら集まってきて』と自分でも不思議そうにしていて、俺が笑いながら『変な奴』と言ったその言葉に、恥ずかしそうに顔を赤らめて頬をかいていた。その仕草にすら、なぜか心臓が反応するのだ。

なんだかムズムズする沈黙の中でポツリポツリと俺が話題をふれば、は微笑んでそれに乗ってくる。それが妙に嬉しくて、落ち着かないけれど、気分は良かった。今思えばあの時すでに、俺はのことが好きだったのだ。
また来てくれたらいいとそういう思いで、しょっちゅうそこから空を眺めてボーっとしていることも話したけれど、修行に熱中しているのか他に理由があるのか、それ以来が特等席に姿を見せることはなかった。アカデミー卒業後のフォーマンセルの中にはいなくて、別の四人組の中に彼女の姿を見つけたとき、その笑顔が俺ではない男に向けられていることにモヤモヤしていた。その様子を見ていのが面白そうにしながらも何も言わなかったのは、あの頃は怪訝に思っていたが、あれは多分あいつが全部知っていたからこその顔だったのだろう。「の事、気になるの?」と言ってくるいのに「そんなんじゃねーよ」と返していたけれど、俺は。

(今でも変わらないくらい、のことが――)


階段を勢いよく駆け上がる。この先に、あいつがいる。それはもうわかっているのだ。ダンッと一番上に足を持って行ったのと同時に、あの時と同じように鳥達が一斉に飛び立って、目を真ん丸にしたが現れた。けれどその真ん丸な目は、あの時のように長くはそれを保たずに、眉を下げ、唇を結び、目は次第に潤って、今にも泣きそうな、あまりにも痛々しい表情に変わっていった。それなのにやはり涙は堪え、静かに下手くそな笑顔を向けようと、口元を緩めるのだ。俺は耐えられなくなっての近くに詰め寄ると、言葉を発するよりも前に、その小さな手を握る。

の目がまた見開いた。

ああもっと早く、こうしておくんだった。忙しいとか、疲れたとか、そんなものはどうだっていい。に少しでも触れさえすれば、そんなもの、きっと次の日も気持ちよく起きられるに決まってる。時間がないのだってそうだ。俺が帰ってくるまで起きていて、後片付けまでしてから眠ろうとするを、後片付けが出来ていないままに掻っ攫って、一緒に眠ればい。そして次の日が起きる時間に一緒に起きて、二人で片付けて、二人で朝の準備をすれば、それできっと全部済むんだろう。

手を握る力を強くした。は肩を揺らして瞳を揺らす。

の、サバの味噌煮が食いたい」

はほう、っと息をついて、少し俯きながら鼻を軽くすすった。俺の目を見た彼女は少しだけ涙を滲ませた目で、けれど静かに笑って「もう遅いから、テマリ達と一緒に食べよう」と言った。


「明日帰るのか? 寂しくなるな」

テマリはそう言いながら心底安堵した顔で息をついた。もう少しで三兄弟に食事を作る日々が終わってしまうと思うと、わずかに寂しさを覚える。それはやはり、兄弟と離れるような、そういう質のものだった。

「だったら、もうの飯食えねーじゃん」
「明日の朝で最後かあ……皆で食べようね。三日間お世話になりました」
「また何かあったら来るといい」

カンクロウと我愛羅が惜しむように言ってくれるのを、シカマルは微妙な表情で黙って見ていた。それにテマリがニヤッと笑い、「なんだ、焼きもちか?」とサバの味噌煮を箸で持ち上げる。シカマルは自分も味噌煮をつつきながら、「別に」と素っ気なく返した。

「〝また〟とかねーから」

不満そうに言う彼に、私は苦笑する。彼がそう思ってくれるならそうあってほしいが、夫婦としてこの先何年もやっていく以上、〝何か〟が本当にないかどうかはわからない。家出するほどの、というのは難しいかもしれないが、小さな諍いは何度も起こるだろう。
穏やかな食卓での夕食は綺麗になくなって、「ごちそうさまでした」の声と共に私は食器を下げてしまおうと立ち上がる。と、我愛羅が袖を引っ張ってそれを遮った。ニヤつくテマリとカンクロウと共に我愛羅まで笑みを浮かべて私を見ている。

「片付けはやっとくから、あんた達はもう休みな」

には明日の朝、美味しい物作ってもらわなきゃならないな」とテマリとカンクロウが私とシカマルの背を押した。まだお茶を飲んでいたシカマルが「おい!」と声を上げるのもお構いなしにぐんぐんと進んでいき、部屋を追い出されてしまう。
私達は顔を見合わせた。シカマルは「あー」と視線を逸らし、宙を彷徨わせてから私の手を握り、突然歩き出す。歩くのが少し早くて私は小走りになりながら、借りている部屋へ向かった。いつもなら歩幅を合わせてくれるシカマルらしくない急ぎ方だと思い、私は不思議に思うけれど、そんな彼の様子に何も言えない。部屋に入っていくシカマルは、まだ手を離さないで歩いて行く。すると急に振り返り、腕を引いて私を引き寄せた。

「あー……」

シカマルの言葉にならない声が耳元で聞こえる。彼の表情は見えない。灯りも付けないで入った室内は暗く、月明かりの光源は室内をやんわりと照らしていた。
今、私はシカマルの腕の中に居るのだと思った。背中に回るたくましい腕も、私が頭を乗せる肩も、私を乗せて支えている全てから、シカマルの温もりがする。およそ一週間、離れていただけなのに、その匂いが酷く懐かしかった。

「……シカマル?」

小さく、名前を呼んでみる。すると彼は「何だよ」と少し不機嫌そうな声。何も言えないでいると、そんな私をシカマルはギュウッと抱きしめる。それに私は息をつめた。心臓がドクドクと脈打っている。まるで初恋したての少女みたいに。

「……好きだ」

一番大きく脈打った心臓は、痛いくらいだった。「うん」と小さく返した私に、シカマルは息をついて少しだけ力を緩めると、私の右手と彼の左手をつないだ。優しく包み込む右手と同時に、手は強く強く結ばれて、離れる様子は欠片もなかった。
心音が落ち着いてくる。残った左手をシカマルの広い背中に回しながら、私は小さく息をついた。涙が出そうになるのを、堪えもせずに垂れ流す。「ねえ、シカマル。私ね」。視線が合わないまま声を出すと、その声は自分でも情けないほどに震えていた。少しだけ離れると、シカマルの驚く顔が見えた。けれどその表情は次第に優しいものになって、つないでいた手は離さないまま、背中にあった手が私の涙を拭う。

「寂しかったんだ」

何も言わず、何も言えず、待っていたけれど、本当は、あなたが私を見ないことも、あなたが私に触れないことも、寂しかった。寂しくないふりは、上手にできていたのだろうか。それがいつからか綻んでいることに、私自身気づいていたけれど。私が居ない間、シカマルは私のことを考えてくれただろうか。少しでもいい、一分でも、一秒でも、寂しいと思ってくれただろうか。

そして私のことを、必要だと思ってくれただろうか。

止まらない涙を流したまま、シカマルの目をじっと見つめていた。すると彼まで耐えられなくなったように、少しだけ眉を困らせて、私を強く引き寄せた。

「俺も……言えたことじゃねーかもしんねーけど」

「帰ってお前が居ないのとか、夜お前が横に居ないのとか、朝布団が自分のとこ以外冷たいのとか、嫌だ」。溢れてきた涙がシカマルの服に吸い取られていくのを感じながら、静かに目を閉じる。
きっと今日はよく眠れるのだろう。二人で抱き合って、手を握って、そうやって眠りにつけるから。

きみが愛しいと気づいたから

(手をつないで眠り、握り返して起きる。そんな日々を)
  • 2014/03/25
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