足音がする。人のような、人よりも大きいものの足音がする。右と左から一つずつ、自分の方へ迫ってきている。自分の荒い息を聞きながら、小さな手で包丁の柄を痛いほどに握り込んだ。瞳孔は開ききっている。整えようとしても整わない呼吸は、抗うよりも受け入れた方が楽なくらいだった。
思い出してはいけない。今だけは父と母の死を思い出しては、いけない。自分の小ささを意識してしまうから。あいつの大きさに怯えてしまうから。力の差に体が萎縮してしまうから。勝てるだなんて思わなくていい。けれど、立ち向かうことをやめてはいけない。なぜならば、

(生きていたい……)

その一言に尽きるのだ。

左から来るやつよりも、右から来るやつの方が少しだけ早く私のところへたどり着く。だったら、そちらだ。

震える手を、刃物を握る力を強めることで何とか誤魔化した。立ち向かったからといって生き延びられるかはわからない。けれど、立ち向かわなければ生き延びられるなんてことはあり得ない。二体の巨人にむしゃむしゃ食われて、ゲロのように吐き出されて、終わる。そんなのは嫌だった。

何かを捨てなければ、何かは得られない。今私が捨てなければならないのは〝臆病な自分〟で、それを捨てて得られるのは〝生〟だ。

心を決めて右へ走り出す。小さな私を見逃した巨人が私の上を跨ぐその瞬間、無我夢中でそいつのアキレス腱を渾身の力で削ぎ落とした。子供の高い声が咆哮を上げる。肉片が飛び、バランスを崩した巨人が音を立てて倒れ込む。大きさの割に軽いその音に驚く間もなく、腰を抜かした私は左に居た巨人がこちらに気付いてやってきているのを放心したまま見ていた。いつまでも続いてくれなかった緊張の糸は、すでに切れて跡形もない。一体を転ばせるそれだけに、全て使い切ってしまった。後に残っているのは押し込めていたはずの恐怖と力が抜けて動かないからだだけだった。

(食われる)

巨人の醜悪な顔を見て、咄嗟にそう思った。

「リヴァイ!」

誰かの声がする。そして、ビュッと風が鳴る。誰かの背中が私の横を通り抜け、二体の巨人を鮮やかに屠るのが、流れるような一連の動作として見えた。背中に描かれた翼が目に焼き付いて離れない。力強い背中と、振り返ったあの人の顔を絶対に忘れないと、私は思った。


は窓から入ってくる柔い光にゆっくりと目を開けた。普段ならこんな光で起きたりはしないというのに、明け方の太陽に反応したのは今日が104期訓練兵団の解散式だからかもしれない。これでやっと兵士として動くことができるのだと、昨夜彼女はらしくなく興奮して中々寝付けなかった。寝不足からか欠伸が出るが、自然に起きられたため気分は悪くない。同室のトモエ・アレンスを起こさないように気を遣いながら、彼女はのそのそと起き上がり身支度を整えると、顔を洗いに部屋を出た。朝方の空気はまだ静かで、少し寒いと感じる。寝ぐせがついているであろう髪を手櫛で梳き、撫でつけながら廊下を歩く。足音は決して立てない。

(懐かしい夢、見たな)

思い返す必要もないほどに目に焼き付いている背中を、改めて夢で見られた。なんとなく先行きがいい気がして、は表情を微かに和らげる。決して明るい記憶ではないが、あの背中だけはにとって希望だった。この日にあの夢を見られたことに何か意味があるのかもしれない、と彼女にしては珍しいことを考える。
冷たい水で静かに顔を洗う。一気に目が覚める思いで顔を上げると、僅かに驚いた顔をした教官と彼女の視線がかち合った。

「おはようございます」

右手を心臓に当てる敬礼をし、声量に気を遣って挨拶をすると、彼は「おはよう」と言ってから微笑んで「なおっていいぞ」と穏やかに言った。訓練兵団に来たが一番世話になった、と思えるその教官はリオ・ベルツといった。彼は彼女の方へ歩み寄ると、先ほどの彼女と同じようにして顔を洗う。

「冷たいな」
「そうですね」

決して交わす言葉数が多かったというわけではないし、個人的なことを相談するほど付き合いが深いわけでもない。今も、そして最初から、そうだった。まだ兵の中では若いだろうその明るい面差しは、訓練になればとことん厳しかったし、雑談をするようなタイプでもなかったからだ。ただ、その距離感が楽だったとは思う。自分の行動を彼に咎められたことは、思えば今まで一度もない。「お前にはあまり口を出したくないんだよなあ」といつだったか彼がぼやいていたのを、はなんとなしに覚えていた。
結局どういう意味なのかは聞けずじまいになりそうだが、いつか大人になった時、酒を飲み交わしながら聞いてみたいものだと、彼女は思う。そこには生きている未来が必要不可欠であることも、は無意識のうちに理解し、だがそこへ向かっていることを疑いはしなかった。疑えば疑うほど、それが遠のくのを彼女はよく知っている。

「配属兵科はもう決めたのか?」
「はい。私は――」
「ああ、言わなくていい。今当てるから」

そんな提案を珍しいな、とは思ったが、リオの表情を見て納得がいく。当ててみようなどと言いながら彼は、彼女がどこに所属したいのかを理解しているのだ。きっと、それは今勘付いたというようなものではない。彼が自分のことをよく見ていてくれていたのをは知っている。口を出すわけでもなければ何か手を貸すわけでもない。ただ、この教官はが初めて立体機動装置を扱った時から、彼女を注視していたのを、彼女は感じ取っていた。

「調査兵団。どうだ、当たりだろ?」

口調は決して丁寧ではないのに、彼の声はとても落ち着いていた。教官になる前は歴戦の兵士であったというから、その名残なのだろう。かの有名なリヴァイ兵士長とも交流があったというから頷ける。が小さく微笑んで「ええ」と肯定すると、リオは少し驚いた顔をしてから満足そうに頷く。

「でも、どうしてわかったんです?」

空はだんだんと明るくなってくる。もうそろそろ他の104期も起きて来る時間だ。の問いにリオは眩しそうに目を細め笑顔だった。

「お前が誰かさんにえらくよく似た飛び方をするからな」

重ねる

(訓練兵になってから、一番嬉しい言葉だった)
  • 2014/07/14
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