仁王は走っていた。
昼食ついでに上がった屋上でそのまま寝ていた彼は、六時間目のチャイムと共に目を覚ます。もうこんな時間か、と出席しなかった授業を思いながらも部活までに起きられてよかったと思うのは、副部長の鉄拳を受けるのは避けたかったからだ。しかし、わざとではなくともここまでサボってしまえば、今更終礼に出る気にもなれず。仁王は屋上のフェンスに背を預け、ボーっとするように空間を見つめた。
しばらくして、下から声が聞こえてきたのは確かに裏のほうからだった。
『そうよ! なのにあんたは動じもしないで……っ』
聞こえてきた甲高い怒鳴り声。それに怒鳴られたことはないが、声自体には聞き覚えがあった。バッと立ち上がりフェンス越しに下を覗き込む。確かにそこにいた自分の〝カノジョ〟とその友人。怒鳴られた相手は建物に隠れて見えない。
しかし、仁王は相手が誰なのかわかってしまった。
あそこにいるのが自分の思う通り〝アノコ〟であるならば終礼はもう終わったことになる。彼女はサボリをするほど不真面目ではない〝普通〟の生徒だ。確認した屋上の時計はもう部活が始まる数分前を指していた。もしもここで彼女等のゴタゴタに首を突っ込めば部活に遅れることは必至。そうして真田に鉄拳を貰い、その後噂になってもう一発、なんてのは彼には簡単に予想ができるのだ。
だが仁王は。
勢いよく屋上の扉を開ける。鉄製のそれが彼が抜けた後バンッと音を立てて閉まったが、彼はそれを振り返らなかった。一段飛ばしに駆け下りる。少し上がる息は、確実に焦りから来るものだった。
上履きのまま、廊下の適当な窓から身を乗り出す。彼女等が居たのに近い窓の下は土で、湿り気を帯びたそれは下り立ってもジャリ、とは鳴らなかった。
ドンッ。
曲がり角でぶつかって、お互いに少々よろける。仁王は自力で体制を整え、相手は後ろの人に支えられた。「すまん」。そう言って、相手をろくに見もせずに走り出そうとしたが、視界に入った少女の茶髪に一瞬振り返った。つかのま、目が合う。しかし彼の足は止まらない。
大きな目に溜まる水気はもう流れた後で、少々赤い頬は腫れるところまではいっていなかった。
「」と名前を呼んだ声は予想外の人だった。しゃがんでいた私を見つめる仁王の目が、いつになく真剣そうな、焦っているような印象を持つ。何でここに、そう思う前に、眉間に皺がよったのは仕方がないことだ。
「……何しに来たの」
一番に私が言った言葉に、仁王は少々安心したような顔をした。タイミング的には三吉さんと顔を合わせているはずだけれど、彼がこちらにきたのは私を三角関係なんてものに巻き込んだ罪悪感故だろうか。仁王がそれを感じるとは思っていなかったが、私に靡いたと思うほうが無茶な話だ。
何故仁王が、息を切らせてここにいるのかがわからない。
私は呼び出されたことを誰にも言ってい。巴に言えば何が何でも臨戦態勢でついてきただろうし、「仁王には言わないで」と言った私に複雑そうな顔をした小林さんは今度ばかりは仁王に話してしまうだろうと思った。だから、「何しに来たの」ではなくて、「どうして来れたの」が正しい。
「上から見えたんじゃ」
それをわかっているのかわかっていないのか。正しい方の質問に対する答えを述べた彼に、私は「答え方が間違ってる」と言った。
「プリッ」
「プリッじゃわからない。……まあいいけど」
三吉さんが去って行った曲角。追いかける理由も目的もなくて、私はそれを見送るだけに留めたけれど、それならば逆の方向からでもさっさと立ち去ればよかったのかもしれない。
人付き合いが濃くなく広くないために今まで人と衝突することは少なかった。他人と口論になれば、私は決まって一歩引き、譲った。だからだろうか。彼女と衝突し、引かなかったことが疲労につながったのだと思う。疲れてしゃがみ込んで、そこに仁王が現れたものだから、彼が必要以上に心配したのだ。
ため息をつき、立ち上がる。ふと仁王が表情を歪めるので何かと思ったが、その視線は私の左頬に向いていて、ああ、と思う。「殴られたんか」。静かな声で問われ、私は小さく頷いた。ここで殴られていないなんて簡単にバレる嘘はつかない。
「もうやり返した」
加減はしたにせよ、私も彼女を殴ったのだからもうお互い様だ。三吉さんが仁王から責められるいわれはないのだと言外に告げ、私はカバンを肩にかけなおした。「じゃあ」。別れの挨拶はそれで事足りる。彼は珍しく複雑そうな顔をしていたけれど、結局私に「また明日な」と返した。
「」
険しい表情の学年主任が私を呼びに来たのは次の日のHR前だった。「ちょっと来なさい」。何やら重苦しい声色に、私は首をかしげることなくそちらへ向かう。「ちゃん」と心配そうな小林さんの顔が見えたが、私は彼女と、そこにいた巴に「大丈夫だ」と告げる。
仁王はまだ学校に来ていないようだった。それだけが私の心配事なだけに、彼がいないことは好都合だ。
連れられて行った校長室にいたのは昨日も見た顔だった。三吉さんは目を赤くして、昨日一緒にいた友人に支えられるようにしてそこに立っている。友人の方は私が入ってくるのを見るなりキッとこちらを睨んだが、教師は「やめなさい」と一言言うだけにとどまった。三吉さんの頬は、昨日あれから冷やさなかったことが伺える様態になっている。しかし、私が放った一発は、次の日に支障をきたすようなものではない。ということは、後からもう一、二発食らわせたのだろうか。よくやるな、と無感動な心が思った。
「」
校長が口を開いて呼んだのは私の名だった。場の空気は重々しいが、私の内心は驚くほどに軽い。
彼は続けて単刀直入に言った。
「そこにいる三吉の頬をぶったのは君で間違いないのかね」
「はい」
事実は事実。それはどんなときでも変わらない。
あっけらかんと返事を返して見せた私に、教師陣は表情に驚きを滲ませ、次に険しい顔になった。
「はまだ来とらんのか?」
「ううん、来てたんだけど……」
朝教室に行くと、いつもは俺よりも早く来ているがいなかった。一緒に登校しているらしい篠崎はいて、事実来ることは来たのだという小林の表情が少し暗い。何があったのかと首を傾げれば、篠崎はと似た仕草でため息をついた。
「先生に呼ばれていったわ」
「がか?」
「そうよ。最近、あの子の周り物騒だしね」
「別に意外でもないでしょ?」。そう疑問形で放たれた篠崎の言葉は俺を責めているような色を持つ。「あんたのせいだ」と目が口よりも饒舌に語る。なまじ美人なだけに睨まれるとダイレクトに響いた。
「私は昨日の放課後、あの子が何を言って何をされたのかよくは知らないけど、これでに何かあったら、私恨むわよ」
誰を、とは言わないその様子が篠崎の思いを淡々と語るように思える。実際に手を下している者は勿論悪いが、仁王雅治が関係ないなんてことはないのだと突きつけ、自覚させた。
の周りで何かがあるのは知っていた。彼女が隠しているから詳細はわからないにせよ、俺はそれを知っていたのだ。ただ、が隠している。介入されたくないらしい。彼女の意志を汲むという大義名分の上で、知っていながらそれを放置した。
「好きならうだうだ言ってないで突っ走りなさいよこのヘタレ」
ヘタレじゃない。そう反論することも忘れ、俺は教室を飛び出していた。
「理由を聞いておこうか」
やっとのことで反応が正常になった彼等が、私に質問をぶつけてくる。それは酷く上からで、私の処罰を軽くするか重くするかの判断材料を探す意味を持っていた。耐えろ。いくら上から目線が鬱陶しかったからって、ここで反論すれば身を滅ぼすのは私だ。暴れそうになる感情を、いつまでも冷静な理性が止めた。成績優秀品でどちらかと言えば優等生な私が、今、内心では目の前にいる察しの悪い頭がガチガチになった教師達を嘲っているのだとは、彼等は思わない。
「ビンタされたので、やりかえしました」
ザワリ。場の空気が動く。視線は三吉さんに。しかし声を出すのは彼女ではない。ここで彼女が叫べば、悲劇のヒロインである彼女の印象はグラリと揺らぐ。それは彼女もわかっている。勉学において馬鹿だろうがなんだろうが、彼女は〝女〟なのだから、そういうことは本能的に理解しているのだろう。私もそうだからわかる。そんな彼女に代わって声を上げるのは、彼女を支える友人だ。
「この子はさんを殴ったりしてないわ!」
キッと私を睨み、さも私が悪者のように振る舞う彼女には一点の曇りもないように見えた。彼女は役者に向いている。そういえば、演劇部だったか。記憶に当てはめて、酷くなっとくをした。
「……と言っているが?」
「事実は事実です。撤回はしません」
どちらを信じたものか、と教師の思考が動くのが見えた。
成績は優秀だが人付き合いはあまりよくない私より、成績は悪くても人付き合いが上手で教師にも好かれている彼女のほうが有利に思われる。この状況は、まだ私にとって不利だ。
そろそろ動こうか。
廊下が少し騒がしいな、と思いながらも、まだHR前だから生徒が遊んでいるのだろうと片付けて、私はポケットに手を突っ込み、ケータイを取り出した。
「、ケータイはしまいなさい」
学年主任は「お前のためにならない」とでも言いたそうな表情でそう言ったが、私は二つ折りのそれを開いてあるファイルにたどり着いた。
「黙って聞いていてもらえますか」
生意気な、とでも言いたいのだろうか。しかし私は教師達のそんなものに揺らがされるような覚悟でここに臨んではいないのだ。
昨日呼び出されたとき、三吉さんが私に手を上げるかもしれないことなんて簡単に予想ができた。そしてそうなれば、私はその分をやり返すだろう。それを利用して彼女がこういう行動をとるかもしれないことなんて、それこそ簡単な流れだ。ならば私もそれを利用して、自分の無実と彼女の罪を暴いてやろうというのは当然のことで。
『早かったのね』
ケータイのスピーカーから流れる音声に、三吉さんがハッとした顔をする。友人の方は驚いて、今度は反応が追い付かない。最高の音量に設定されたそれは、確実に校長室にいる教師達の耳に届いているようだった。
『三吉さん』
私の声が流れ、三吉さんの表情が歪む。昨日の出来事だと、彼女は確信したのだろう。室内はシンと静まり返っていた。私達の呼吸の音が聞こえてしまうのではないかと思われるほどに。鳴り響くのはケータイから放たれる機械を通した風の音だ。
『率直に聞くわ。さん、雅治と付き合ってるの?』
『……うん』
『そう、あたしもよ』
『知ってる』
パンッ
そこで私がビンタされた音が鳴った。音だけでは、どちらがどちらを殴ったのかなんてことはわからない。だけど、一連の流れがある。ここで私が殴るのはおかしいと、教師達は気づいたらしい。しかし、三吉さんにとって一番聞かれたくないのはこの後だろう。彼女の顔が悔しそうに歪み、噛みしめられた唇が小刻みに震えるのが見えた。
『ロッカーの嫌がらせとか、机の中の紙とか、三吉さんがやったの』
『そうよ! なのにあんたは動じもしないで……っ』
『そう』
パンッ
『やられたら同じだけ返すって決めてるから』
その後の、三吉さんが立ち去るまでの流れは必要ない。私はピッとファイルを閉じてポケットに押し込んだ。
室内に重い沈黙が。いきなりの形勢逆転に、どうすればいいのか考えると言うよりは、思考回路が追い付いていない様子の大人達に私は声をかけない。後のことは勝手にやってくれという感じだ。
「三吉さん」
呼びかけると、彼女の肩が大きく跳ねた。そろりとこちらを向く彼女は、普段の綺麗なメイクの面影もない。元がいいのは変わらないが、赤くなった目は昨日一日泣き明かしたのかもしれないということくらいはわかるものだった。
「私は、仁王雅治が好きだ」
バンッ。勢いよく開いた校長室の扉。そこに立っていたのは銀髪の彼。後ろから追っていたらしい教師が、「入るな仁王! 大事な話中だ!」などと言っているが、目を真ん丸にした彼の耳に届いているのかいないのかはわからない。
「教室に戻ってもいいですか」
私は仁王に声をかけず、校長に視線を向けた。彼は「その前に謝罪くらいは、」と三吉さんに目をやったが、私は「いりません」と一刀両断する。
「しかし、」
「謝罪されたところで何が変わるわけでもないので。今後何もしないと約束してもらえるなら何もいりません」
「失礼します」。仁王が立ち呆けている扉から、彼を無視して出て行った。「!」。後ろから追ってくる声に疑問ばかりが浮かぶが、私は振り返らない。
今更教室に戻る気もしないので屋上に向かった。相変わらず仁王は後ろをついてきているが、本当になぜ。それがわからないのは私が立ち止まって仁王の話を聞こうとしないからなのだが、それにしたって。昨日のことはまだしも、今回ばかりは三吉さんの様子を気にかけるべきだ。こちらについてくることで仁王に何の利点があるのだろう。わからない。わからないところも、好きだ。私はもう駄目だ。仁王のとりこになってしまっている。いつの間に。それもわからない。でもとりあえず好きだ。
だからこんな行動をとられると、誤解しそうになる。だから、やめてほしい。それははっきりしていた。
「人の話は聞くものじゃろ」
「何しに来たの」
「昨日も聞いたな、それ」
ちゃかす様子がないのにホッとした。「俺がお前なんかを好きになるか」と嘲られなかったことに酷く安堵している。
今朝、私が呼び出されたときには教室にいなかった仁王が校長室にきたということは、小林さんか巴のどちらかが何かを言ったのだろう。なんてタイミングで入ってきてくれたんだと思う。もしもう一瞬早く入ってきてくれていればあんなことは言わなかったと思うのに。
教師がいる前であんなことを言ったのは、三吉さんが私に嫌がらせをするくらい仁王が好きなように、私も三吉さんを泣かせてでも引き下がりたくないくらい仁王を好いているのだと、それを伝えるならばあのときだと思ったからだ。
彼女が仁王を本気で好きで私に向かってきていたのは昨日痛感した。ならば、私も中途半端な気持ちのままに応じるのは失礼だし、卑怯だ。そんなことならば手を出すなと彼女に言われても、私はおそらく言い返せない。
昨日、家に帰ってから何度も彼女の姿を思い出していた。仁王が好きだと全力で訴える、その直情性。私にはないもの。羨ましい反面、眩しくて避けたかった。だけど、私はそれに同じだけの心で返さなければならないことも、なんとなくわかっていた。彼女が全霊をかけてくるのならば、私も。彼女は直進的だが、私は屈折しまくっている。だから彼女のようにはできないけれど、ならば〝私なり〟の全身全霊で彼女に意志を示さなければ。そう思ったら、あの方法で彼女を退けて、彼女に私も彼を好きなのだと伝えなければならなかった。
だけど、それを仁王に言うのはまた別の話だ。
「言い逃げはなしじゃろ」
「仁王に言ったわけじゃない」
「俺に言わんで誰に言うんじゃ」
「三吉さんに」
「知ってたんか」。少々驚いたような声で仁王が言うのに、私は小さく頷いた。初めから、と意味を込めたのが伝わっただろうか。おそらく、伝わっていないだろうと思ったが、あえて言葉にはしない。チラリと見た仁王の顔は、声と同じような少しだけ驚いた顔だ。
「別に、仁王と付き合おうとか思ってないから」
だから言いたくなかったのだと、そう告げるはずの言葉を仁王はどう受け取ったのか、少しどころではない驚き様を顔に滲ませて、私を見た。
「なあ」
「何」
「抱きしめてもええか」
何を言っているのだこの男は。そう反応する前に、仁王の腕が私に回る。なんてこと。聞いておいて返事を待たないなんて、まったく躾のなっていない猫だ。「何して、」。途中まで出た言葉は、仁王の言葉に阻まれた。
「もう付き合っとるじゃろ」
あの〝おつきあい〟は今もまだ健在なのか。私と仁王のゲームの中に三吉さんが介入してきた時点で、それはすでに無効になっているような気がしていた。なぜならば、彼女は仁王のちゃんとした恋人だけど、私はゲームのプレイヤーであるはずだからだ。仁王と私の関係は、お遊びであったはず。
「三吉さんは、」
「今日の朝、別れた」
「ふられたの?」
「ふったんじゃ」
来る者拒まず去る者追わず。その代り、彼が恋人にふられたという噂は聞いても、彼からふったというのは聞かなかった。ふろうと思うほどの理由もないからなのだろうと私は思っていた。それなのに、今回三吉さんは拒まれて私は追われたというのか。まったくもって不思議だ。行動はよろしいものではなかったが、私は三吉さんの方が魅力的な女の子だと思う。仁王が私に興味を持つ理由がわからない。彼がわざわざ私と付き合っていると言う意味がわからない。
「嘘だと思っとるんか」
「当然」
「……が好きじゃ」
顔は見えないが、とりあえず情けない声だと思った。にじみ出る必死さは酷く仁王らしくない。飄々として、自由で、いつでも無意識に手を抜いている印象があった。彼はそういう人だと思っていた。だけど考えとは裏腹に、私の心は歓喜の声を上げているわけで。
ここまでかき乱されるなら、仕方がないから白状しようか。
「仁王」
「何じゃ」
「私、仁王の驚いてる顔が好きなの」
私の放った言葉に仁王が驚くのが嬉しいと感じたのはいつからか。飄々として、自由で、いつでも余裕そうなその顔から平静をはぎ取れるのが嬉しいと、気づいたのはついさっき。
「悪趣味じゃ」
むっとしたような声で仁王が反論するから、私は思わずクスリと笑う。それに仁王が驚いた。
「それを好きだと言う仁王も悪趣味だよ」
壁を壊すか、乗り越えるか
- 2012/06/24
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