ガス欠になる前に仲間の元へ戻り満タンのガスを持って座っていた彼等の近くに腰を下ろすと、は疲れたというように、けれど何かスッキリしたかのようにふーっと長い息を吐いていた。もうこの辺りに巨人が来ないという確証もなかったが、このまま一人で戦い続けるにはいかんせんガスの残りが少ない。彼等の中の誰かと交換してもらうことも考えたが、退却するときにが大量のガスを持っているよりも彼等が持っていた方が、全員の生存率は上がるかもしれなかった。なんせこの中で一番立体機動装置の扱いが上手いのは、考えるまでもなくであるのだから。
はチラリと見慣れた顔を見やって、もう一度、息をつく。
まるで知らない人を見るかのような視線。
彼女自身わかってはいる。自身の戦闘能力を見て、今まで見せてきたそれとのギャップが大きいことも、彼等がそれに混乱していることも。けれどこれから、彼女は訓練兵ではなくなるのだ。いつまでも訓練ではない。これからは実戦が待っている。彼女が待ち望み、目指し、心を震わせた、外の世界が待っている。そこで生き延びるためにはいつまでも生温い覚悟ではいられない。訓練でやる気が出なかったからといって、は実戦でもそうであるというわけではなかった。むしろ、実戦でなかったから今まで訓練に積極的に参加しなかったのだ。
幼い頃、目の前に迫った巨人の足を覚えている。確かな手ごたえと、それまであった緊張感を覚えている。両親が殺された場面よりも鮮明に、あの人の背中を覚えている。自分の命を救った人。自分を生かし、背でもって学ばせた人を、ずっとずっと思い浮かべて生きてきた。彼の背中だけを見ていたかった。彼の背中だけを目指していたかった。それだけを手本にして、今まで励んできた経験が、示したのだ。
私の力は通用する。
エレンみたいに勇気を持っているわけでも、ミカサみたいに強いわけでも、アルミンみたいに賢いわけでもない。幼馴染の中で一番普通で、何かに秀でているわけでもなく、あえて言うなら〝何でも平均的にできる〟ことが取り柄だった。それがコンプレックスでなかったといえば、嘘だ。何か特別なものを持っている彼等は、その特別で支え合い、穴を埋め合い、生きてきた。けれど私にはそれができない。何でもできる代わりに、何でも一番にはなれない。
そんな私に与えられた、一つの光だった。
あの人の背中を見たことが、あの人に助けられたことが、あの時確固たる目標として掲げるものができたことが、私にとって今まで生きてきて、一番、幸せなこと。私には他に何もないけれど、その代りそれだけがあった。あの野性的なまでの、本能的な強さ。それに目を奪われた。心惹かれた。
『私もああなりたい』
そんな衝動は初めてだった。
それを得るためだけに、訓練の生温さを覚えないよう手を抜いた。その判断を今になって正しかったと確信する。
『お前が誰かさんにえらくよく似た飛び方をするからな』
教官に言われた言葉を思い出す。あれがお世辞でなければいい。そうしたら、どれだけ嬉しいことか。
巨人と再び相対して、は感じていた。血が滾るような興奮と、緊張感。一瞬の混乱と、その後に来る恐ろしいほどの冷静。あの時、十歳のあの時の、感覚を。集中力がガンと上がり、目の前の物事の一つ一つがよく見える感覚。周りの音がよく聞こえる感覚。そして、いつもよりも脳が働いている感覚。
成功すれば生きる。失敗すれば死ぬ。そういうやり取りの中で生きていくことが、これからの自分がやるべきことだ。
「……ってば!!」
同朋の声に目を開いた。どうやら寝ていたらしく、まだ頭が軽くぼーっとしている。「何、トモエ」と声をかけると同時に焦ったような彼女の顔が視界に入った。周りの風景は何も変わっていない。自分が戦っていた時に、仲間が隠れていた場所だ。そこに戻り、仲間の無事を確認したところまでは覚えているが、そこからの記憶がない。どうやらその時点で眠ってしまったのだろう。
「貴様、居眠りとはいい度胸だな」
ふ、と声のした方を見てみると、そこには年配の兵士がいた。駐屯兵の制服を着た彼は、私を掴みかかりそうな勢いで睨んでいる。青筋が浮かび、目が充血しているのが見て取れた。
「仲間達が身を削って働いている間、貴様は呑気に居眠りか?」
歩み寄ってくる彼を視界から外し、息をつきそうになったのを堪えた。仕方がない。眠っていたのは事実であるし、戦場で眠るということがどれだけ非常識かくらい私にもわかる。手を膝について重い腰を持ち上げると、私の前に誰かが立ちはだかったことに自分の上に影がさしたことで気付いた。
「何だ、貴様も処罰を受けたいのか?」
「いいえ。でも、彼女を罰されるわけにはいきません」
トモエの声だった。わずかに震えるその声に、私は彼女を凝視する。手を大きく広げ、私の壁になるように立っている彼女の横には、やはり同じ班の少年達が同じようにして立っている。
トモエはどこにでも居る普通の女の子だった。素直でひたむき。人に合わせて自然と気を遣うのが上手だ。努力家で、けれど少々臆病。そんな彼女が、上官の前に立ちふさがっている。
「ここに来た巨人を倒してくれたのは、なんです。全部が、やってくれました」
呆けた私と駐屯兵。彼にはトモエの真剣な視線が飛んでいることだろう。私よりも一足先に我に返ったその兵士は、鼻で笑って「そんな馬鹿なことがあるか」と言って嘲るような表情を作る。それにトモエが歯を食いしばるのが見えた。そして彼女の視線が立体機動装置のガスボンベに向かったのが、わかった。
「いいですよ」
とっさに声を出していた。トモエは驚いたようにこちらを振り返り何かを言おうとしたが、私はそれを遮るように「拘置所にでも行けばいいんですかね」と軽い口調で言って見せる。トモエの目が途端に水気を増し、眉が悲しそうに歪んだ。わかっている。私を守ろうとしてくれている彼女の気持ちは素直に嬉しかった。けれど、守らせるわけにはいかない。
彼女や他の班員が巨人に臆したことは、私にとって責めるほどのことじゃない。わかっていた。初めて見た巨人が恐ろしいことなんて。なぜならば私には、臆して両親を見送った経験があるからだ。だから責めたりなんてしない。私が言ったのだ。『そこに居て。無駄にガス使わないで』。敵前逃亡は罪に問われる。私が言ったそれに従った彼等を罰されるわけにはいかなかった。ボンベを見せたりしたら、トモエが言ったことが事実だとバレてしまう。
「聞き分けがいいな。その通りだ。こっちへ来い」
ニタリと笑うオヤジの表情が不快だ。けれどそれを表には出さず、私は小さく笑ってトモエ達にヒラヒラと軽く手を振った。巨人相手に怯える心が、彼女達の中にトラウマとして残らなければいい。倒せる存在だと印象付けられていれば最高だ。一度相対した彼女達は、一度戦場を体験した彼女達は、次からきっと震えながらでも立ち向かえるだろう。自分の剣を重く感じても、勢い任せでもいい。震える腕で放つ渾身の攻撃は、案外効くもんだよと心の中で後ろに語る。それが通じたらいいなあと、呑気な事を考えながら駐屯兵の紋章を追った。
「クソッ」
ダンッと壁を蹴る。さっきの駐屯兵が焦ってでもこんなところまで歩いてやってきたということは、事態は何とかましになったということだ。事態が起こってから今まで、私はに守られて、守られたまま終わってしまった。彼女がどんな罰を受けるのかと考えただけで頭に血が上る。悔しさに顔が赤くなるのがわかる。私を宥めようとする班員の声も耳に入ってこなかった。情けない、情けない情けない!! 自分の頬を打ちたくてたまらない気分だ。涙が出そうになるのを堪え、上を向く。そうするとそこから、誰かが飛び降りてくるのが見えた。
「う、上!」
「え? わあっ!」
降ってきたものに全員が身構える。緑のマントが見え、その紋章を目に焼き付けると、次に目に入ってきたのは私ですら見たことのある戦士の顔だった。
「リ、リヴァイ兵士長……!?」
どうして、なんで、こんな人がこんなところに……! 混乱する私達をよそに、彼は私達をジッと見回すと、眉間に皴を刻んだ。「……足りねーな」。そう呟かれた声に私はハッとした。それに気づき、リヴァイ兵士長が私の目を真正面から見る。
「10班で間違いないか?」
「は、はい!」
背筋がシャンとした。思っていたよりも小柄な体格ながら、雰囲気が違う。強い、強い空気を纏っているのがわかる。歴戦故か、強い強い空気がある。少しだけ、さっきまで戦っていたと似た空気だと思った。
「・がこの辺りだと聞いてきたんだが、居るか?」
その問いに、視界が揺らぐ。疑問を持つよりも先に、心臓が握られているような苦しさに見舞われた。
「、は……」
「……食われたのか」
「いいえ……!」
私の答えに彼は目を少しだけ大きく開いて、それから「落ち着いて話せ」とさっきよりも穏やかな声を出してくれた。凄く、安心する声だった。
私の拙い涙声を辛抱強く聞き、「わかった。そっちは俺が行くから、お前達は他の班と合流しろ」と行くべき方向を指差してから迷いなくアンカーを打ち込みにかかる彼を見ていると、また涙が出そうになってしまうのを、私は空とその背中を仰ぎ、何とか堪えて見送った。
仰ぐ
- 2014/07/20
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