彼は私が仁王の申し出を受け入れるという予想外の展開にずっと驚いていたりはしなかった。正気に戻ったからといって冗談だとなかったことにすることもなく、恋人の存在を私に知らすような発言もしない。恐らく彼の中での私は、彼の噂が入ってこないほど交友関係が狭く、尚且つ冗談の告白を本気と受け取り受け入れてしまった可哀相な同級生なのだろう。しかし私もそれを訂正しない。こっちはこっちで騙している気でいるのだから。

仁王の恋人になって約一週間が経とうとしている。彼があの美人の恋人をどうしたかと言われれば、今も普通に付き合っているようだ。本人から彼女の話題が出ることはないからよく知らないが、付き合っているならそれでいいと思う。ドラマのように引っぱたかれて泥棒猫と言われるのは流石に遠慮したい。
彼女に対して罪悪感がないわけではないのだが、仁王と私のこの関係は恋人というよりもゲームのプレイヤーに近いと思っている。切り捨てるなら美人の恋人より無愛想な対戦相手だ。私は仁王の恋人と彼を取り合うところまでをゲームに組み入れてはいなかった。


六時間目の終わりを告げるチャイムは十分ほど前に鳴り終えた。帰りのHRを終え、まばらになった教室の中にはそろそろ部活へ行こうかという雰囲気の生徒がほとんどだった。廊下にいけば騒がしい放課後の空間が広がっていて、女子達がそこに溜まっているのが見えるだろう。通路で団子になるなよと思いながら、別に急ぐ用事のない私は幼馴染と共にそれらが過ぎ去るまで待つのが通例だ。私の机の方が近いから、帰りの仕度を済ませたら彼女がこちらにくる。

窓側にいる幼馴染が机に広がっている筆箱の中身を片付けているのを目の端に捉えたときだった。横から聞こえてきた、ここ数日聞くことの多くなった声に呼ばれ、振り返る。「何」と疑問符を付けない素っ気無い一言を、仁王が気にする様子はない。

「今日、部活終わるの待てんか?」
「何で」
「一緒に帰らんかと聞いとるつもりなんじゃが」

「はあ?」。仁王の顔を見る私の顔は、おおよそ恋人に向けるものではなかったらしい。「何じゃその顔は」と流石の仁王も苦笑した。なんだ、そういう笑い方もするのか、と一つ新たな発見をする。噂が一人歩きをしていた、というわけではないようだが、人柄は噂だけではわからない、というのは本当のことであると、彼と話すようになって実感した。

「パス」

眉間に寄った皺を取り払い、簡潔に返事をする。教室の中にはやはり数人の生徒が残っていて、仁王が私を誘ったあたりで彼等の視線が一瞬こちらを向いたことに私も気付いていた。これ以上はよろしくない。「駄目か」と半ばわかっていたというような返事を聞いて、私は「駄目」と返した。

「どうしても?」
「面倒くさい。それに待ってる間が暇だ」
「練習見とったらええ」
「嫌だ。あんな女子の群れなんて」

先ほど以上に顰められたらしい顔を見て仁王が笑う。しかし私がテニスコートに纏わり付く彼女等のようなタイプではないことを彼はわかっているようで、その理由もちゃんと理解してくれたらしい。

「あと、私の通学路仁王と正反対だから」

しかし理解してくれたからと言って優しくする気もなく、私はさらなる追い討ちをかけて取り付く島もない様子を見せた。「そうか」。仁王は断られることも予想済みであったかのような軽い返事をし、ラケットの入ったカバンを肩にかけて「じゃあまた明日」と一言。教室から出て行く銀髪を見て自然とため息が出そうになったのは何故だろうか。

一連の流れを見ていた巴が、私が彼女の元へ来ると同時に問いただした。「どうして仁王があんたを誘うのよ」。それはそうだろう。私だって、今の自分を客観的に見てみたら違和感を感じる。一つ二つどころではなく。怪訝そうな顔をしている彼女を相手に、どう説明したものかと考えた。

「……それ、今話さないと駄目?」

正直、仁王と噂になるのは結構本気で避けたかった。避けたかったが、おそらく今の会話では、明日丸一日くらいかかればすぐに回ってしまうだろう。しかし、だからと言って開き直るようなことはできそうにもない。仮に〝仁王とが付き合っている〟と噂が流れたとしても、本人が認めていなければモヤがかかったままでいられるのではないかと思った私は、周りを見回して、もう一度巴を見る。彼女はその様子で理解したらしく、帰ってからでいいわ、とため息をついた。察しのいい幼馴染で助かると、私は心底思った。


「はあ!? あいつと付き合ってる!?」
「煩い」

帰宅後、二件手前の家の門をくぐったはずの巴がすぐにインターホンを押した。先ほどのことが気になって家まできたというのだ。そんなに気になったのかと思いながら、約束はしっかり守るタイプの彼女の行動としては予想外でもなんでもない。私はお茶とコップをお盆に載せて、先に上に上がらしておいた巴を追った。
円卓を挟んで真正面。彼女は未だ大きな目を見開いて驚いている。

「あいつ、例の彼女は!?」
「付き合ってると思うよ」
「二股じゃない」
「そうだね」
「ちょっと!」

「真面目に聞きなさいよ!」。お茶を飲みながら生返事で応じているとクレームが付いた。仕方がない。
巴は美人で外見にも気を使う。化粧だって濃くはないが自然な程度にはする方だ。だからといって遊び歩いているわけでもなく、根は真面目なほうなので、どちらかといえば元々仁王とはソリが合わないタイプだろう。噂を聞くたび興味なさげに、しかし嫌悪を表していたのは覚えている。
だがそれだけではない。今のお説教じみた声色も、私を心配してのことだとわかっているから拒む気にはならないのだ。

「あんたそれでいいわけ?」
「別に、私も仁王を好きなわけじゃない」
「……そうなの?」
「うん」

挑発されたから仕返してやろうと思って、と言うと、巴は一瞬呆気に取られた顔をして、頭痛でもするかのように頭を手で押さえた。「そうよね、あんたはそういう奴よ」。


翌日、学校に行くと教室の中がなんとなく浮ついている印象を受けた。何かあったのだろうか? よりも先に、やっぱりクラスには回るのが早いな、と思う。それは、教室に入った途端パッと注目した視線が気まずそうな雰囲気を持っていたからだろう。いつも通り「おはよう」と挨拶だけを交わして、それなりに交流がある程度のクラスメイトの視線をいなした。
面倒くさい。聞きたいなら聞けばいい。ハッキリさせたいならさせればいいのに、そこにいる生徒達は誰かがそうするのを待っている。じれったい。動くなら自分が動けよ、と思ってしまうのは私がそういうタイプだから仕方がない。

「おはよう」。そうかかってきた声に意外な印象を受けたのは仕方がなかった。仁王と同じく目立つタイプの丸井と私とは、やはり接点らしい接点がない。彼は少し気まずそうな顔でいて、あの噂の確認のためにきたのだと簡単に予想がついた。

、最近仁王とよく話してるよな」

まずはカマかけからだろうか。そう思ったが、いきなり「付き合ってる」とは言ってやらない。話しかけてきた理由がわかっていてそれを返さない私は意地が悪いとわかっている。

「話しかけられれば応じるよ」
は話しかけねーけど無視はしねーもんな」
「まあ」

丸井は少し迷うような空気を持ってそこにいた。私の微妙な回答に、率直に聞くかどうかを考えているのだろう。私は何をする用事もないので話かけることもなく、彼が何か言うのを待っている。やがて決心がついたらしい丸井は、私に向き直ってもう一度「」と名前を呼んだ。私と目線を合わせて、小さな声で問う。

「お前、仁王と付き合ってんの?」
「うん」

小声にしたということは、誰かに言うつもりも、広めるつもりもないということなのだろう。私はそう結論付け、丸井ならいいかと思った上で彼に答えた。
正直バレたくないバレたくないとは言っても、バレないとは思っていない。いつかバレる。「が仁王の彼女らしい」「え、二股じゃん」。そんな話が回るのも、昨日の出来事があった後では時間の問題だ。噂は光りの速さで人と人との口を渡る。ただ、私はそれまでの期間を少しでも長引かそうとしているだけだ。

ちなみに私は、恋人を意味する〝彼女〟という言葉が嫌いだった。〝彼の女〟と不躾に言われているような気がするのだ。それを付き合ってすぐ仁王に言ったら、面白がって「は俺の彼女じゃろ?」とニヒルな笑みを浮かべて見せたので、私は六時間分の教科書がビッチリ詰まった帰り際のスクールバッグを彼の足に思いっきり落としてやった。痛がる仁王をシカトして、転がったカバンを拾い上げ、肩にかけて「じゃあまた明日」と言ったのはつい最近の話。

「まじかよ」。微妙な顔をした丸井は、微笑む私を見てため息をついた。
多分彼も私を噂に疎い人間だと思っただろう。実際聡くはないが、耳を百八十度違う方向へ向けていても聞こえてくるような仁王の噂まで知らないということはない。別れた、くっついた、別れた、くっついた。それくらいのことは聞こえてくるのである。しかしやはり、何も言わない。

「……何かされたら、遠慮なく周りに頼れよ?」

なんなら俺でも大丈夫だからな。そう言う丸井には多分年下の兄弟がいると、そのとき私は暢気に思った。

計算尽くの笑顔

(純粋なふり)
  • 2012/06/02
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