今日からテスト一週間前に入る。私は真面目ではないが、成績は下げようと思うほうがおかしいだろう。常に上位にくいこませることを条件に、どこよりも一番近かった私立の中学に通わせてもらっている身なわけで、母の目玉を食らうのは正直ごめんだった。

「雅治!」

さっさと帰って勉強をしなければ。そんな思いで荷物をまとめているときに、一人の少女が仁王の名前を呼んだ。三吉さんだ、と思ったがそちらを見ることはしない。ふわふわしていそうな茶髪に大きな瞳。ばっちりきめた化粧は彼女の可愛さを一層際立てた。仁王と並べば美男美女。誰から見てもお似合いな二人は、付き合って三ヶ月ほどになると風の噂できいた。時折感じる彼女の視線に、ああ、この子も噂を聞いているんだな、と他人事のように思い、一方で面倒くささにため息をつく。

「でね、今日友達と勉強して帰るから、一緒に帰れないの」
「わかったぜよ」
「ごめんね。また明日!」

三吉さんは出ていく前に私を見た。丁度立ち上がり、扉へ向かおうとそちらを向いた私とばっちり視線が合う。うわ、と思ったが逸らさずに、精一杯キョトンとした顔をして彼女を見返すと、彼女は気の毒そうな顔をした。これでなんとかなったか。その場しのぎではあるだろうけれど。彼女が出て行った後、仁王も立ち上がり私に向き合う。私はあえて彼女のことにはつっこまず、仁王もそれについて何も触れなかった。

、一緒に帰らんか」

何度か聞いた台詞を口から出す仁王は、私の答えに期待をしていないように見える。
幾度も誘われて面倒くさい。テスト前で部活動が休みなため、断る理由が一つ減って、なんと言い訳をしようか考えるも、新しいものなんて出てきそうもないと諦めるまでにそれほど時間はかからなかった。普段一緒に下校している彼の恋人は頭がそんなによくないと聞く。だから友人と勉強のために学校に残るというのは先ほど彼女が仁王に伝えに来た事項だった。そのうえ今日、巴はちゃんとテスト勉強をしたいから、とさっさと帰ってしまっている。今回のテストでいい点が取れたら、彼女は新しい本を山ほど買ってもらえるらしいのだ。

「……途中までなら」

あまり乗り気ではないという雰囲気を全面に押し出して言った言葉に、仁王は一瞬驚いた顔をして、あのニヒルな笑みを浮かべた。もう見慣れてしまったそれを横目に、私はさっさと教室から出ていく。教室の中で丸井が少し複雑そうな、心配そうな視線を私に向けていることに気づいたが、それを私は黙殺した。


「じゃあ、私こっちだから」
「は?」

教室から出て階段を下り、下足に履き替えてたどり着いた校門の前で、私は仁王に告げた。それなりに続いていたが弾んでいたわけではない会話がピタリと止み、私が目にしたのは仁王の驚いたような顔。ここまで驚いた顔を見たのは二回目だな、と脳裏で思いながら、私は仁王に背を向けるつもりで体を動かそうとする。「」。それを仁王は、私を呼ぶことで動作の停止を促した。

「何?」

白々しいと思いながらもただ問いかける。仁王は珍しい驚きの表情を未だ少し残していて、それが私には少し可愛く映った。うん、こういう仁王なら悪くはないかもしれない。そんな一時の気の迷いのような思考回路はさっさと遮断して、無表情のまま落ち着き払った視線を向ける。

、家近いんか」
「うん、十分かからない」

仁王が向かおうとした駅の方向とは真逆の方へ行こうとするから気づいたのだろう。そこに行きつくあたりは流石と言えなくもないが、これは多分、よほど気が動転していない限りは誰でも気づくだろう。
こんな校門の前で押し問答をしていては目立つことこの上ない。しかし私にはこの時、少々の諦めがあった。どうせ噂にもなっていることだし、確証付けるようなことはしたくないが私はこれでも断っているわけで。

「初耳じゃ」
「〝通学路仁王と正反対だから〟って言ったでしょ」
「……プリッ」

それは返事だろうか。
彼の発する鳴き声のような声を聞いて、私は小さく、しかし深いため息をつく。何がなんやらわからないが、彼はとにかく何かが不満らしい。面倒くさいと思いながらも私はメモを取り出し、ペンで文字を書くと仁王に渡した。

「……なんじゃこれ、住所?」
「探してまで関わりたいならお好きにどうぞ」

勿論テストが終わってからね、と付け足して、私は今度こそ仁王に背を向けた。いくら学校から近いとはいえど、十分でここまでくるような場所を態々探したりはしないだろう。私はそう思っていたわけで。


まさか本当にテストが終わってから探してやってくるとは思ってもみなかったわけで。

昼を食べ終えた頃、ピンポンと一度鳴ったインターホンに一番に反応したのは母だった。食器を洗っていた母が「出てー」と声をかけたことで私が動いて、画面でろくに確認もせずに扉を開けたのがまず間違いだ。チラリと見えた服装が新聞の勧誘なんかとは雰囲気が違ったために確認を怠った私は、玄関を出て愕然とする。

「仁王……?」

今まで仁王の発言や行動に対して驚いたことはほとんどない。私よりも彼の方が驚いているのは、私の行動とキャラクターに少々のギャップがあるせいだろう。人付き合いが不得手で真面目。そんな印象を与えるような、そういうキャラクターであるのは自覚している。驚いた私を見て仁王はニヤッと笑って見せた。してやったり、そんな顔だ。
私は他に何も言わず、もう一度家の中に入る。

「誰だったー?」
「学校の」
「あら、巴ちゃん以外の人なんて珍しいわね。上がってもらえば?」
「いい。ついでにタローの散歩してくる」

余計な詮索をされまいと、玄関に置いてあるリードを取り、愛犬の名前を大声で呼んだ。茶色の柴犬が駆けてきてリードを持った私に飛びつくのはそのすぐ後。抱き留めてリードを付け、扉を開けて再び仁王と対面だ。

「おまたせ」
「なんじゃ、逃げたんかと思った」
「逃げないよ」

仁王が笑うのを聞きながら、私は門を開けて道路に躍り出る。まだ若いタローは元気に「いこういこう」とリードを持つ私ごと引っ張っていきそうだ。だが仁王に気づいて少し警戒心を見せる。銀髪だからか? と思った私は別に悪くない。

「犬?」
「タロー」
「普通じゃな」
「普通が一番」

「歩こう」。一言言うと、彼はすんなりと動いた。動き出して嬉しいタローはさっさと走っていきたいようだが、空気を読んでいるのかなんなのか、とりあえずいつものように私を引っ張ったりはしない。今日こそしてくれればいいのに、と思うことには思うが、雰囲気を読むのは悪いことではないのでここで駆けろというほうがおかしい話だ。

「外でよかったんか?」
「仁王を母さんに紹介したくない」

ハッキリ思ったことを言うと、彼は不思議そうな顔をしていたが、なるほど、としばらくして納得したらしいその仕草に、案外順応性の高いタイプだったかと思う。しかし、わかってくれなくては困るといえば困るのだ。
母にまで紹介して、万一受け入れられてしまったら、私は親公認で仁王の〝恋人〟になってしまう。遊びの一環であるはずのこれをそこまでキッチリと確固たるものにしたくはない。私はまだ仁王を恋人として好きかと問われると唸るところだし、仁王はもっとそうだと思う。

どこに行くでもなく歩いた。この辺りは地元だから、タローの好きにさせても迷うことはない。タローを連れて来れば安易に店なんかには入れないし、図書館なんかの定番所もアウトだ。とにかくあまり長居はしたくないという思いで散歩の時間を繰り上げたのだが、それでもタローは室内犬の運動不足を解消できて満足気である。
私と仁王とが話すのを見ているうちに、タローは仁王への警戒を解いていった。「ねえねえ、この人どんな人?」と聞いているような気がして、家に帰ったらアイツは詐欺師だと教えてやろうなどと思う。

会話もそこそこに二人してタローについていく。共通の話題というのがあまりないと感じるのは確実にコミュニケーション不足だとわかっているが、私から話題の提起を行うことはまずない。一方で仁王の話は聞いているだけで何となく面白い。適当に相槌を打って、それでも多分仁王は私が暇を持て余しているわけでもなく、ちゃんと話を聞いているとわかっているだろう。

タローが向かっているのが学校の方向だと気づいたのは随分歩いてからだった。私が通学に使う近い道ではないが、回り回って同じ場所に出る道はいくつかある。その一本を通っているのはなぜかと思ったが、ふと思い至るのは横にいるこの男だ。タローは仁王の匂いを辿っているのかもしれないと気づくが、別に問題はないと思っていた。

失念というのは、時に恐ろしいものだと痛感する。

休みの日に、家の離れた同級生と、何もなしに犬の散歩なんてするはずがない。勘ぐられるのはまず男女の付き合いなわけだが、それはもう、随分と運悪く、彼女に見つかったものだと思う。
校門から出てくる人物を見つけ、私は頭を抱えたくなった。
この間のテストの補習に引っかかっていたであろう三吉さんは、教科書の入っていなさそうなカバンを肩にかけて出てくる。その視線に私達が止まるのは最早必然と思われた。ばっちり合ってしまったそれは、この間の〝キョトン〟ではどうしようもできそうにない。彼女の顔がみるみる凍り付いていくのを見て、私はどうすることもできずタローの歩みに身を任せた。またもや空気を読んだのか、ユーターンして元の道を戻りだす彼にどうしようもない愛情を感じる。

可愛い彼女の顔が泣きそうに歪んでいるような気がして、私は振り返ることができなかった。

仮面の下で泣いている

(いつもあんなに笑っている子だから)
  • 2012/06/06
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